明石の歴史をたどる――日本の時間が、この町の上を通るようになるまで

日本の時計が指している時刻は、明石の上を通る一本の線から決まっている。東経135度。この線を日本の標準時と定めたのは1886年(明治19年)の勅令で、施行は明治21年(1888年)1月1日だった。
ただし、その勅令は「明石」とは一言も書いていない。「東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム」とあるだけである。東経135度線は日本列島を京都府から兵庫県、和歌山県まで縦断しており、明石だけを通っているわけではない。
それなのに、なぜ明石が「時のまち」になったのか。この記事は、その答えを含めて、明石という土地に積み重なったものをたどっていく。
源氏物語に、この地名は出てくる
明石という地名は古い。『源氏物語』には「明石」の巻があり、須磨に流された光源氏が明石に移り、明石の君と出会う。平安時代の都の人にとって、明石は「都から西へ行った、海の見える場所」として認識されていたということだ。
その理由は地形にある。明石は、本州と淡路島が最も近づく海峡に面している。この海峡を渡らなければ、四国にも九州にも行けない。陸路でも海路でも、西へ向かう人は必ずここを通る。
古代から、明石は都と西国を結ぶ結節点だった。人が通れば宿ができ、市が立ち、記録が残る。地名が古くから知られているのは、それだけこの場所を通った人が多かったからである。
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1619年、幕府の命令で城が建った

明石城が築かれたのは1619年(元和5年)。築城主は初代明石藩主・小笠原忠政(のちの忠真)である。
この年号に注目してほしい。大坂の陣が終わったのが1615年。その4年後である。豊臣家が滅びたあと、幕府は西日本の押さえを固めにかかっていた。姫路には池田氏がすでにいた。そこにもう一つ、明石に城を築かせた。
明石城の特徴は、天守がないことである。代わりに置かれたのが二つの三重櫓、巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)だ。いずれも1620年(元和6年)のもので、明石城公式によれば巽櫓は船上城から、坤櫓は伏見城から移築されたと伝わる。
この二つは日本に12基しか現存していない三重櫓のうちの2基である。ひとつの城に2基残っているのは全国でも珍しい。昭和32年(1957年)に両櫓が国の重要文化財に指定され、平成16年(2004年)には城跡が国の史跡となった。2006年には日本100名城に選ばれている。
移築という点も興味深い。伏見城から運ばれてきた櫓が、明石で四百年立っている。当時の築城は、材料も建物も使い回すのが普通だった。城は記念碑ではなく、実用の建造物だったということである。
江戸時代の明石は、市の資料によれば小笠原家10万石(後に松平家8万石)の城下町として栄えた。海峡を押さえる城下町。これが近世の明石の姿である。
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ここから「時のまち」の話に入りたい。
明石市立天文科学館の資料によれば、日本の標準時が定められたのは1886年(明治19年)の勅令第51号である。1884年のワシントン国際子午線会議を受けたものだった。条文はこうだ。
「明治二十一年一月一日ヨリ東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム」
施行は明治21年(1888年)1月1日。この日から、日本中の時計が同じ時刻を指すことになった。
だが、この条文には地名がない。東経135度という数字があるだけである。ならば、なぜ明石が「時のまち」と呼ばれるようになったのか。
答えは、明石の人々が自分たちで名乗り出たからである。
小学校の校長たちが、石を建てた
天文科学館の資料が挙げる最初のできごとは、意外な主体によるものだ。
1910年(明治43年)、地元の小学校長会が、明石に最初の石標を建立した。
国でも県でも大学でもない。小学校の校長たちである。子どもに教える立場の人々が、自分たちの町を通る線に意味があると考え、石を建てた。
これが起点になった。1928年(昭和3年)、明石中学校で天体観測が行われ、子午線の正確な位置が測定される。そして1930年(昭和5年)、月照寺付近に「トンボの標識」が設置された。トンボは日本を象徴する意匠として選ばれたという。市の年表はこれを「天体測量に基づく新子午線標識を人丸山に建設」と記録している。
1933年(昭和8年)には、国道2号沿いにコンクリート製の標識が立てられた。人が通る道に、線の位置を示す。
ここまで20年以上、市民と学校の手で標識が建て継がれている。「日本の標準時はここを通る」と言い続けた町が、やがてそう認められた。地名が制度で決まったのではなく、事実の主張の積み重ねで定着した珍しい例である。
柿本人麻呂と、人丸という地名
明石の子午線をめぐる話には、もう一つの層がある。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)である。
万葉集を代表する歌人であり、明石海峡を詠んだ歌でも知られる。市内には人丸山という地名があり、人丸前という駅がある。子午線の標識も、天文科学館も、この人丸山の上に立っている。
ここで面白いのは、「時のまち」の中心が、万葉歌人の名を持つ丘の上にあることだ。市の年表には「昭和5年、天体測量に基づく新子午線標識を人丸山に建設」とある。近代の科学が、古代の歌人の名を冠した場所に置かれた。
人麻呂は「火止まる」に通じるとして火除けの神としても信仰され、また「人産まる」に通じるとして安産の神ともされてきた。言葉の音から神格が派生していくという、日本の民間信仰らしい展開である。
そして二十世紀、同じ丘に東経135度という数字が加わった。歌と、信仰と、経度。ひとつの丘に三つの層が重なっている。
船上城から運ばれてきた櫓
明石城の巽櫓が船上(ふなげ)城から移築されたと伝わるという話には、少し補足が要る。
船上城は、明石城が築かれる以前にこの地域を治めていた城である。明石城ができたということは、船上城が役目を終えたということだ。そしてその建物が、新しい城へ運ばれた。
坤櫓が伏見城から移築されたと伝わるという点も同じ構造をしている。伏見城は豊臣秀吉が築き、関ヶ原の戦いで焼け、徳川によって再建され、そして元和年間に廃城になった。その解体材が全国の城や寺へ配られた。
つまり明石城の二つの櫓は、前の時代が終わったことの証拠でもある。船上城の時代が終わり、伏見城の時代が終わり、その材料で新しい秩序の城が建った。
建物を使い回すというのは、単に経済的な理由だけではない。由緒ある建物を自分の城に取り込むことは、その権威を引き継ぐという意思表示でもあった。1619年の明石城は、そういう政治的な建築だった。
そして四百年後、二つの櫓だけが残った。本丸御殿も、城下の武家屋敷も失われ、移築されてきた建物だけが立っている。いちばん古いものが、いちばん長く残った。
1960年、子午線の上に望遠鏡が建った

そして1960年(昭和35年)6月10日、明石市立天文科学館が開館する。東経135度の子午線の真上に建てられた施設である。テーマは「時と宇宙」。
6月10日という開館日にも意味がある。この日は「時の記念日」である。時の施設が、時の日に、時の線の上に開いた。
塔の上には大時計があり、館内にはプラネタリウムがある。子どもが遠足で行き、大人が改めて訪れる。「日本の時間はここから」という主張が、建物として立ち上がった。
そして昭和61年(1986年)、日本標準時制定100周年を記念して「あかし子午線まつり」が開催された。1886年の勅令からちょうど100年である。
ところが1995年、阪神・淡路大震災がこの施設を襲う。天文科学館は大きな被害を受けた。時を刻む建物が、止まった。
再開は1998年(平成10年)3月15日。三年余りをかけて復旧し、いまも同じ場所で動いている。
大正八年、全国で81番目の市になった
行政としての明石市の歩みも見ておきたい。
大正8年(1919年)11月1日、明石市が市制を施行した。市の資料によれば全国で81番目、兵庫県下では4番目である。当時の人口は約3万2千人、面積は7.7平方キロメートルだった。
面積7.7平方キロというのは、現在の49.41平方キロの6分の1以下である。当初の明石市は、城下町とその周辺だけの、きわめてコンパクトな市だった。
市域が広がったのは戦中戦後である。昭和17年(1942年)に林崎村を合併。そして昭和26年(1951年)に大久保町・魚住村・二見町を合併し、人口は約11万2,000人になった。
この昭和26年の合併が決定的だった。大久保・魚住・二見は、いずれも明石の西側にある。これによって明石市は東西に細長い形になり、西部に広大な平地を抱えることになった。
そしていま、市の人口約30万人のうち、不動産の取引がいちばん活発なのは、この西部である。大久保町や魚住町といった地名が、明石の住宅地の中心として語られるようになったのは、1951年の合併があったからだ。七十年前の行政判断が、いまの街の重心を決めている。
令和元年(2019年)、明石市は市制施行100周年を迎えた。この年、市の資料によれば「布団太鼓が150年ぶりに明石城に集結」するあかし伝統夢まつりが開催されている。城が城として使われなくなってから、150年ぶりに祭りの舞台になった。
橋が架かって、海峡は道になった

明石という土地の性格を決定的に変えたのが、明石海峡大橋である。1998年(平成10年)に開通した。
それまで、明石海峡は渡るものだった。船に乗らなければ淡路島には行けない。『源氏物語』の時代から千年、この構造は変わらなかった。
橋ができて、海峡は通るものになった。車で数分。神戸淡路鳴門自動車道は、そのまま四国へつながる。明石は、行き止まりの町から、通過点になった。
もっとも、正確に言えば橋が架かっているのは神戸市垂水区の舞子と淡路市の岩屋のあいだであり、明石市内ではない。それでも明石海峡大橋と呼ばれるのは、この海峡の名前が明石だからである。橋は隣の市にあるのに、名前だけがこちらに残っている。
興味深いのは、橋ができても明石が衰えなかったことだ。港町としての機能は減ったが、住宅都市としての価値は上がった。神戸に近く、しかも神戸より土地が安い。この条件が、明石を選ばれる街にした。
合併で手に入れた西部が、いまの中心になった
明石市の市域の変化を、もう一度整理しておきたい。
大正8年(1919年)の市制施行時:面積7.7平方キロメートル、人口約3万2千人。城下町とその周辺だけだった。
昭和17年(1942年):林崎村を合併。
昭和26年(1951年):大久保町・魚住村・二見町を合併し、人口約11万2,000人。
この昭和26年の合併で、明石市は西へ大きく広がった。そして現在の面積49.41平方キロメートルのうち、かなりの部分がこのとき加わった土地である。
興味深いのは、その後の展開だ。この西部が、いまの明石でいちばん活発なエリアになっている。平地が広く、住宅地として開発しやすく、山陽本線と山陽電鉄の両方が通る。
もし1951年の合併がなかったら、明石市はいまも面積10平方キロ程度の小さな市だっただろう。人口30万人を抱えることも、県内で唯一人口が増える市になることもなかった。
都市の将来は、しばしば数十年前の行政判断によって決まっている。1951年に西を取り込むと決めた人々は、七十年後にそこが街の重心になるとは思っていなかったはずだ。
そして令和元年(2019年)、明石市は市制施行100周年を迎えた。この年、市の資料によれば布団太鼓が150年ぶりに明石城に集結する催しが開かれている。100年の市と、400年の城と、150年ぶりの祭り。時間の単位が違うものが、同じ場所に重なった一日だった。
兵庫県で、ただ一つ人口が増えた市
2025年国勢調査の人口速報が発表されたとき、兵庫県内で最も注目されたのが明石市の数字だった。
307,043人。2020年から3,442人・1.13%の増加。
県内41市町のうち、人口が増えたのは4市区だけである。神戸市中央区、明石市、神戸市兵庫区、神戸市灘区。このうち「市」として増えたのは明石市だけだった。
同じ調査で、隣接する神戸市は▲1.80%、加古川市は▲2.94%、姫路市は▲2.30%。周囲が軒並み減るなかで、明石だけが増えている。
この理由について、公的な因果の説明が出ているわけではない。市の子育て支援策がよく話題になるが、それだけで説明できるかどうかは分からない。確かなのは、明石が「選ばれている」という結果だけである。
ただ、歴史をたどってきた者としては、こう言いたくもなる。この街は、二千年前から人が通る場所だった。都から西へ行く人が通り、四国へ渡る人が通り、いまは山陽本線と国道2号と高速道路が通る。通る場所は、栄える。それだけのことかもしれない。
「時のまち」を名乗るということ
ここで、明石が「時のまち」になった経緯をもう一度考えたい。
東経135度線は、日本列島を縦断している。京都府の京丹後市から兵庫県、そして和歌山県まで、いくつもの市町村を通る。物理的には、どの町も「標準時子午線のまち」を名乗る資格がある。
それでも明石が代名詞になったのは、いちばん早く、いちばん多く、いちばん長く主張し続けたからである。1910年の小学校長会の石標から数えて、百年以上になる。
この過程には、面白い順序がある。最初に標識があり、次に測量があり、最後に施設ができた。普通なら逆だろう。正確な測量をして、位置を確定してから記念物を建てる。ところが明石では、まず石を建て、あとから正確な位置を測り直している。
1910年の石標の位置は、その後の測量で正確な子午線からずれていることが分かった。だから1930年に新しい標識が建てられ、1933年にも別の標識が立った。市内に複数の子午線標識があるのは、この修正の履歴である。
間違えては直し、直してはまた建てる。この愚直さが、結果として「明石=子午線」という認識を全国に定着させた。正確さで勝ったのではなく、しつこさで勝ったと言ってもいい。
東西に長い市の、三つの顔
いまの明石市は、東西に細長い。JR・山陽電鉄の駅を東から並べると、朝霧・大蔵谷・人丸前・明石・西新町・林崎松江海岸・藤江・中八木・西明石・大久保・魚住・西江井ケ島・江井ケ島・東二見・土山──と続く。
この並びは、おおよそ三つの区間に分かれる。
東部(朝霧・大蔵谷)は神戸市垂水区と接し、海と山が迫る。中心部(人丸前・明石・西新町)は城下町であり、駅前商業地であり、天文科学館と明石城がある。西部(大久保・魚住・二見)は平地が広く、住宅地と工場が広がる。
この三区間は、市域に加わった時期がそのまま順番になっている。中心部が大正8年の市制施行時、東部の一部が昭和17年、西部が昭和26年。市の歴史が、そのまま東西の並びになっている。
そして現在、人が最も動いているのは西部である。明石市の町丁のなかで、不動産の取引件数が多いのは大久保町と魚住町だ。いちばん新しく市になった場所が、いちばん活発に動いている。
海が近いということ
明石を語るとき、海の話を落とすわけにはいかない。
明石海峡は、瀬戸内海と大阪湾をつなぐ狭い水路である。狭いということは、潮の流れが速いということだ。この速い潮が、明石の海産物を有名にした。激しい潮に揉まれた魚と蛸は身が締まる。
そして同じ潮が、海峡を渡ることを難しくしてきた。『源氏物語』の時代から、明石海峡は難所だった。だからこそ、ここに港ができ、待つ人が集まり、町ができた。渡りにくい場所の手前には、必ず町ができる。
近世には、明石は城下町であり、港町であり、街道の宿という三つの顔を持っていた。西国街道が城下を通り、船が海峡を渡り、城が全体を押さえる。
1998年に橋が架かって、この構造の一部は終わった。だが海は残った。魚の棚(うおんたな)商店街にはいまも明石の魚が並び、玉子焼(明石焼)は市の名物として全国に知られている。千年変わらない潮の速さが、いまも街の一部を支えている。
明石が「増えた」ことの意味
2025年国勢調査で明石市が兵庫県内で唯一人口が増えた市になったことは、地域にとって小さくない出来事だった。
数字を並べてみる。明石市+1.13%。同じ調査で、尼崎市▲0.53%、西宮市▲0.57%、神戸市▲1.80%、姫路市▲2.30%、加古川市▲2.94%、三田市▲3.77%、宝塚市▲4.09%、淡路市▲5.95%。
明石だけが、プラスである。
兵庫県全体では、この調査で人口が2.58%減った。人口減少は全国的な傾向であり、県内の市が軒並み減るのは特別なことではない。特別なのは、その中で増えている市があるということのほうだ。
なぜ明石なのか。市の子育て支援策がしばしば語られるが、公的な因果の説明が出ているわけではない。人口の増減は、施策だけでなく、住宅供給、地価、交通、雇用、そして隣接する市の動きの結果でもある。ひとつの原因に還元しないほうがよいだろう。
ただ、この記事でたどってきたことを踏まえると、ひとつだけ言えることがある。明石はずっと「通る場所」だった。都から西国へ向かう人が通り、四国へ渡る人が通り、山陽本線と国道2号と高速道路が通る。
そして「通る場所」は、たいてい「住む場所」になる。行き交う人の一部は、そこにとどまる。千年以上その繰り返しをしてきた土地が、いまも同じことをしているだけなのかもしれない。
時間と、海峡と、城
最後に、明石という土地を三つの言葉でまとめておきたい。
海峡。本州と淡路島が最も近づく場所。速い潮。渡りにくいがゆえに人が滞留し、町ができた。『源氏物語』が明石を舞台にしたのも、ここが「都から見て、海のある場所」だったからである。
城。1619年、大坂の陣の4年後に、幕府の意思で築かれた。天守を持たず、他の城から運ばれてきた二つの櫓が四百年立ち続けている。
時間。1886年の勅令に地名はなかった。それでも小学校の校長たちが石を建て、中学校が観測をし、市が施設をつくり、百年かけて「明石=子午線」を事実にした。
この三つに共通するのは、いずれも明石が自分で選んだものではないということだ。海峡はもとからそこにあり、城は幕府が命じ、子午線はイギリスのグリニッジを起点に決まった経度の話である。
それでも明石は、そのすべてを自分のものにしてきた。与えられた条件を、名乗ることで自分のものにする。これがこの街のやり方だった。
明石駅を降りて北へ歩けば城跡の公園があり、南へ歩けば魚の匂いのする商店街がある。そして東へ少し歩けば、丘の上に大時計の建物が見える。その建物の真下を、日本の時間が通っている。
よくある質問
なぜ明石が「時のまち」と呼ばれるのですか?
日本の標準時を定めた1886年(明治19年)の勅令第51号には「東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム」とあるだけで、明石という地名は出てきません。明石が代名詞になったのは、1910年(明治43年)に地元の小学校長会が最初の石標を建立して以来、標識を建て継いできたためです。1928年には明石中学校で天体観測が行われ、1930年に月照寺付近へ「トンボの標識」、1933年に国道2号沿いへコンクリート標識が設置されました。
日本の標準時はいつから東経135度になったのですか?
1886年(明治19年)の勅令第51号で定められ、施行は明治21年(1888年)1月1日です。前提には1884年のワシントン国際子午線会議があります。なお昭和61年(1986年)には、日本標準時制定100周年を記念して「あかし子午線まつり」が開催されました。
明石城に天守はあったのですか?
天守は建てられませんでした。代わりに巽櫓と坤櫓という二つの三重櫓が天守の役割を果たしました。明石城公式によれば、いずれも1620年(元和6年)のもので、巽櫓は船上城から、坤櫓は伏見城から移築されたと伝わります。現存する三重櫓は日本に12基しかなく、そのうち2基が明石城にあります。昭和32年(1957年)に両櫓が国の重要文化財、平成16年(2004年)に城跡が国の史跡に指定されました。
明石市はいつ市になったのですか?
大正8年(1919年)11月1日です。市の資料によれば全国で81番目、兵庫県下では4番目の市でした。当時の人口は約3万2千人、面積は7.7平方キロメートルです。その後、昭和17年に林崎村、昭和26年に大久保町・魚住村・二見町を合併して人口は約11万2,000人になり、現在は人口約30万人・面積49.41平方キロメートルになっています。令和元年(2019年)に市制施行100周年を迎えました。
明石市の人口は増えているのですか?
2025年国勢調査の人口速報では307,043人で、2020年から3,442人・1.13%の増加でした。兵庫県内41市町のうち人口が増えたのは神戸市中央区・明石市・神戸市兵庫区・神戸市灘区の4市区のみで、「市」として増えたのは明石市だけです。同じ調査で神戸市は▲1.80%、加古川市は▲2.94%、姫路市は▲2.30%でした。
この記事で参照した資料
- 明石市「市のあゆみ」
- 明石市立天文科学館「明石と子午線」
- 明石城公式サイト「明石城の見どころ」
- 兵庫県「令和7年国勢調査 人口速報の概要」
※本記事は上記の公表資料に基づいて構成しています。公式の裏付けが確認できなかった通説や伝承については、あえて記載していません。
私たちは神戸市中央区京町に事務所を置き、兵庫県内で不動産売却のご相談をお受けしています。土地の値段は、その土地がたどってきた時間の上に乗っているものだと考えています。
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