淡路の歴史をたどる――最初に生まれた島で、弥生人が鉄を打っていた

『古事記』と『日本書紀』によれば、日本の国土は伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)という二柱の神によって生まれた。そして最初に生まれた島が、淡路島だとされている。
神話は歴史ではない。だが、八世紀の朝廷が編んだ書物のなかで、この島が「最初」の位置に置かれているという事実そのものは歴史である。なぜ淡路だったのか。それを考えることは、この島がどういう場所だったのかを考えることでもある。
淡路市は、その淡路島の北部にある。平成17年(2005年)4月1日、津名町・淡路町・北淡町・一宮町・東浦町の5町が合併して誕生した、比較的新しい市だ。
この記事では、淡路市の資料をたどりながら、神話から震災まで、この島の北半分に積み重なったものを見ていく。
最初に生まれた島、という位置づけ

淡路市には伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)がある。市の市勢要覧は、これを国生み神話に関連する最古級の神社と紹介している。
神話のなかで、伊弉諾と伊弉冉は天の沼矛(ぬぼこ)で海をかき混ぜ、その滴が固まってオノゴロ島となり、そこに降りて国生みを始めたとされる。そして最初に生まれたのが淡路島だった。
なぜ淡路が最初なのか。ひとつの見方として、この島が畿内から見て「海の入口」だったということが挙げられる。大阪湾と瀬戸内海の境にあり、明石海峡と鳴門海峡という二つの潮の速い水路に挟まれている。都から西へ、あるいは四国・九州へ向かう船は、必ずこの島を見る。
もうひとつ、古代の淡路が朝廷に食材を納める「御食国(みけつくに)」だったことも知られている。海の幸と塩を都に運ぶ島。近くて、豊かで、必ず目に入る。神話が最初の島として選ぶには、十分な条件がそろっていた。
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御食国(みけつくに)だった島
古代の淡路には、朝廷との特別な関係があった。御食国(みけつくに)である。
御食国とは、天皇の食膳に供する海産物などを納める国のことだ。淡路のほか、志摩や若狭がそう呼ばれた。いずれも都に近く、海の幸が豊かな土地である。
淡路が選ばれた理由は明快だ。近い。難波(大阪)からも、飛鳥や奈良からも、船で行ける距離にある。しかも明石海峡と鳴門海峡という潮の速い水路に挟まれ、魚がよく獲れる。そして塩がつくれる。
塩は、古代においてきわめて重要な物資だった。保存にも調理にも欠かせず、しかも内陸ではつくれない。塩をつくれる島は、それだけで国家にとって価値があった。
この「近くて、豊かで、必ず目に入る」という条件は、神話が淡路を最初の島に選んだ理由とも重なる。都の人々にとって、淡路は日常的に意識される島だった。知らない遠い島ではなく、食卓に上がるものの出どころとして知られていた。
そして、この関係は一方通行ではない。都と結びつくということは、都の文化と技術が入ってくるということでもある。弥生時代に鉄器の工房があったことも、この島が単なる辺境ではなかったことを示している。
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10秒LINE査定 → 今いくら?がすぐわかる標高200メートルの丘で、弥生人が鉄を打っていた
淡路市には、日本の弥生時代の理解を変えた遺跡がある。五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡である。
淡路市の資料によれば、年代は弥生時代後期。標高200メートルの丘陵上に立地し、竪穴建物跡が23棟検出された。
ここで注目すべきは、この建物群が鉄をつくるための場所だったということだ。市の説明では「炉跡の構造や出土遺物から、弥生時代の鉄器製作技術も明らかとなりました」とある。
出土したのは、細い棒状の鉄製品、三角形および不整形の鉄片(鉄板を切断したときの副産物)、そして板状鉄斧。板状鉄斧は長さ17.8センチ、幅4.8センチ、厚さ1.3センチと、寸法まで記録されている。
竪穴建物には大型のものと小型のもの、炉跡の有無があり、機能が分化していたという。つまりここは、住居がたまたま集まった集落ではなく、鉄器を生産するために設計された工房群だった。
平成24年(2012年)9月19日、国の史跡に指定されている。淡路市の市勢要覧は、この遺跡を日本遺産の中核と位置づけている。
弥生時代の鉄は、多くが朝鮮半島から輸入された素材を加工したものと考えられている。その加工の現場が、淡路島の標高200メートルの丘の上にあった。海を渡ってきた素材が、島の高台で武器と道具に変わり、そこからまたどこかへ運ばれていった。
島に、鉄をつくる技術があったということ
五斗長垣内遺跡の意味を、もう少し考えておきたい。
弥生時代の日本には、まだ鉄鉱石から鉄を取り出す製鉄技術がなかったと考えられている。当時の鉄器は、朝鮮半島から輸入した鉄素材を、日本国内で加工したものが中心だった。
五斗長垣内遺跡から出土したものを見ると、その加工の様子が具体的に分かる。三角形および不整形の鉄片は、鉄板を切断したときの副産物だと市の資料は説明している。つまりここでは、板状の素材を切り、叩き、道具の形にしていた。
そして完成品として板状鉄斧が出土している。長さ17.8センチ、幅4.8センチ、厚さ1.3センチ。実用の道具である。
ここで重要なのは、この技術が当時の最先端だったということだ。鉄器は石器より圧倒的に効率がよい。木を切り、土を耕し、そして武器になる。鉄を扱える集団は、扱えない集団に対して決定的な優位に立つ。
その最先端の工房が、なぜ標高200メートルの丘の上にあったのか。海から見えにくい場所を選んだのか、風を使って炉の温度を上げるためか、あるいは材料と製品の集散に都合がよかったのか。市の資料は理由まで踏み込んでいない。
ただ、竪穴建物23棟のうち大型と小型があり、炉の有無で機能が分かれていたという事実は、ここが組織的に運営されていたことを示している。誰かが計画し、人を配置し、材料を調達していた。弥生時代の淡路に、そういう組織があった。
百七十年、線香をつくり続けている
淡路市の産業には、他所ではあまり見ない特徴がある。
まず線香。市の市勢要覧によれば、約170年の歴史があり、国内生産高日本一である。日本で焚かれる線香の多くが、この島でつくられている。
なぜ淡路で線香なのか。市の資料は理由まで踏み込んでいないが、条件を並べれば見当はつく。湿度が低く、風がよく通る。線香は乾燥させる工程が要る。瀬戸内式気候で雨が少なく、海からの風が絶えない淡路は、この作業に向いていた。
次に吹き戻し。あの、口で吹くと紙の筒が伸びて、離すと巻き戻るおもちゃである。市の資料によれば、国内製造の約80%が淡路市産だという。日本中の縁日で配られているあれの、五本に四本がこの島でつくられている。
そしてカーネーション。約9.7ヘクタールで栽培され、兵庫県出荷の9割以上が淡路島産である。
線香、吹き戻し、カーネーション。三つとも、大量生産の重工業ではなく、手間のかかる軽工業と園芸である。島という条件のなかで、輸送コストが小さく、単価に技術が乗る産業が選ばれてきた結果だろう。
日本で三番目に古い洋式灯台

淡路市の北端に近い場所に、江埼灯台(えさきとうだい)がある。
市の資料はこれを「日本に現存する3番目に古い洋式灯台」とし、令和4年(2022年)2月に国の重要文化財に指定されたと記す。
洋式灯台が日本に建てられ始めたのは幕末から明治初期である。開国にともなって外国船が航行するようになり、条約で灯台の設置が義務づけられた。つまり日本の初期の洋式灯台は、国際関係の産物である。
そのなかで三番目に古いものが淡路にあるということは、明石海峡が当時から重要な航路だったことを意味する。潮が速く、狭く、船が集中する。灯台が真っ先に必要な場所だった。
そして百五十年あまり後、同じ海峡の上に橋が架かる。1998年、明石海峡大橋の開通。灯台が守ってきた航路の真上を、車が走るようになった。
市の資料が「明石海峡大橋で神戸とつながっている」と記すとおり、この橋は淡路市の性格を大きく変えた。船でしか行けなかった島が、車で行ける場所になった。
橋が架かって、島が変わった
1998年、明石海峡大橋が開通した。全長約3,911メートル、中央支間長1,991メートル。開通当時、世界最長の吊り橋だった。
この橋は、淡路市(当時は淡路町)の岩屋と、神戸市垂水区の舞子を結ぶ。淡路島側の起点は、淡路市内にある。
橋ができるまで、島へ渡る手段は船だけだった。明石海峡は潮が速く、天候が悪ければ欠航する。島に住むということは、いつでも本土へ行けるとは限らないということだった。
橋の開通で、この前提が崩れた。神戸まで車で1時間かからない。島でありながら、都市圏に接続された。
もっとも、橋には両面がある。人が来やすくなる一方で、人が出ていきやすくもなる。買い物も通院も本土でできるようになれば、島内の商店は苦しくなる。この構図は、全国の架橋された島で共通して見られるものだ。
そして、橋の建設が始まった時期と、震災が起きた時期は重なっている。橋の主塔は1995年の地震のときすでに立っており、地震によって明石海峡の幅がわずかに広がったため、設計が変更されたことが知られている。橋そのものが、この島の地面が動いたことの記録になっている。
1995年1月17日、地面が動いた

淡路市を語るとき、避けて通れないのが野島断層である。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災。震源は淡路島北部だった。そしてこの地震で、地表に断層が現れた。
市の資料は、野島断層が阪神・淡路大震災の断層として保存されていることを記している。北淡震災記念公園では、ずれた地面がそのままの状態で屋内保存されている。
畑のあぜ道が食い違い、道路が段差になり、家の基礎が横にずれている。そのすべてが、動いた瞬間のまま残されている。これは災害の記録であると同時に、地球の動きを目で見られる稀な場所でもある。
地震のとき、この島は震源に最も近かった。それでも建物の被害が神戸ほど大規模にならなかったのは、都市部と比べて建物の密度が低かったこと、そして地域の結びつきが強く救助が早かったことが挙げられる。北淡町(現・淡路市)が住民をすべて救助したという話は、震災の教訓として広く語られてきた。
そして十年後の2005年、5町が合併して淡路市になった。震災からの復興と、平成の大合併が重なる時期だった。
島に橋が架かるということ
ここで少し、島という条件そのものについて考えておきたい。
島に暮らすということは、移動が天候に左右されるということである。船が出なければ、病院にも学校にも行けない。この不確実性が、島の暮らしの基本条件だった。
だから島では、集落が自立する必要がある。浦ごとに神社があり、漁の取り決めがあり、助け合いの仕組みがあった。1995年の震災で、旧北淡町の住民がすべて救助されたという話が語られてきたのは、この自立の仕組みが残っていたからだと言われる。誰がどの家に住んでいるかを、近所の人が全員把握していた。
1998年に橋が架かって、この条件が変わった。天候に関係なく、いつでも本土へ行ける。これは疑いなく暮らしの改善である。
だが同時に、島が自立している必要も薄れた。買い物は神戸で、通院も本土で。便利になるということは、地域の内側で完結していたものが外へ流れ出すということでもある。
2025年国勢調査で淡路市が▲5.95%、洲本市が▲6.34%、南あわじ市が▲6.86%という数字を出しているのは、この構造の帰結でもあるだろう。橋は人を運び込みもするが、運び出しもする。
いっぽうで、橋があるからこそ可能になったこともある。島に住みながら本土で働く。本土に住みながら島で事業をする。「島か本土か」ではない選び方が、初めて成立するようになった。この条件をどう使うかは、これからの話である。
五つの町が、ひとつの市になった
平成17年(2005年)4月1日、津名町・淡路町・北淡町・一宮町・東浦町が合併し、淡路市が誕生した。
この五つの町の名前を地図の上に置くと、島の北半分をぐるりと囲む形になる。淡路町は北端の岩屋、明石海峡に面する。東浦町は東岸で大阪湾側。津名町は東岸の中ほどで、市役所が置かれた。一宮町は西岸で、伊弉諾神宮がある。北淡町は西岸北部で、野島断層がある。
つまり淡路市は、島の北半分を、海岸線に沿って一周する形をしている。中央には山地があり、市域はその周囲に薄く分布する。
この形は、暮らしの単位がそれぞれの浦(うら)だったことに由来する。海に面した集落が、それぞれ独立して漁と農をやってきた。山を越えて隣の浦へ行くより、船で海を渡るほうが早い場所も多かった。
実際、市内の地区名を見ると岩屋、浦、久留麻、釜口、志筑、大磯、尾崎、江井、育波、富島といった、海に関わる名前が並ぶ。「浦」そのものが地名になっているのは、この島の暮らしの単位を示している。
2005年の合併は、こうしたばらばらの浦を、ひとつの行政単位にまとめる試みだった。神話の時代から千数百年、島の北半分がひとつの名前で呼ばれるようになったのは、二十一世紀に入ってからである。
「浦」という単位
淡路市の地名を眺めていると、ひとつの言葉が何度も出てくる。「浦」である。
浦とは、海が入り込んだ入り江のことだ。淡路市の地区名には、そのまま「浦」という地名があり、周辺には岩屋、久留麻、釜口、志筑、大磯、尾崎、江井、育波、富島といった、海に面した集落の名が並ぶ。
島の暮らしの単位は、行政区画ではなくこの浦だった。それぞれの浦に舟があり、漁場の取り決めがあり、神社があった。山を越えて隣の浦へ行くより、船で海を回るほうが早いことも多かった。
この構造を頭に置くと、2005年の合併の意味が見えてくる。五つの町がひとつになるということは、いくつもの浦がひとつの行政単位にまとまるということだった。
淡路市の市域が、島の北半分を海岸線に沿って一周する形をしているのは、この浦の連なりをそのままなぞっているからである。中央の山地には人がほとんど住まず、市域は海沿いに薄く分布する。
そして、その山の上に五斗長垣内遺跡がある。いま人が住んでいない場所に、二千年前は鉄の工房があった。暮らしの重心は、時代によって海と山のあいだを行き来してきた。
三万九千人という規模
2025年国勢調査の人口速報によれば、淡路市の人口は39,472人。2020年から2,495人・5.95%の減少である。
この減少率は、兵庫県内の市のなかでも大きい部類にあたる。同じ調査で洲本市は▲6.34%、南あわじ市は▲6.86%。淡路島の三市は、いずれも6%前後の減少である。
島という条件は、人口の面では厳しい。進学や就職で島を出た人が戻る動機をつくるのは難しく、企業の集積も限られる。
いっぽうで、1998年の明石海峡大橋の開通によって、神戸まで車で1時間かからないという条件が生まれた。海を渡る島でありながら、都市圏に接している。この条件を持つ島は、日本にそれほど多くない。
近年は島内に企業の拠点や観光施設が増え、移住を選ぶ人の話も聞かれるようになった。ただし、それが人口の趨勢をどう変えるかについて、確かなことを言える段階ではない。ここでは、いま分かっている数字だけを記しておく。
「最初の島」であり続けるということ
この記事でたどってきたものを、もう一度並べてみる。
国生み神話で最初に生まれた島とされ、伊弉諾神宮がある。弥生時代後期には標高200メートルの丘で鉄器がつくられていた。明治初期には日本で三番目に古い洋式灯台が建った。170年前から線香をつくり、日本中の吹き戻しの8割をつくっている。1995年に地面が動き、その断層が保存されている。2005年に五つの町がひとつになった。
この島の歴史に一貫しているのは、「境目にある」ということだ。本州と四国のあいだ。大阪湾と瀬戸内海のあいだ。畿内と西国のあいだ。
境目にある場所は、通過されやすく、しかし必ず目に入る。だから神話は最初の島に選び、弥生人は鉄の工房を置き、明治政府は灯台を建て、二十世紀は橋を架けた。
そして1995年、その境目そのものが動いた。島がここにあるのは、プレートがぶつかり、断層がずれ続けてきた結果である。野島断層に保存されている地面の食い違いは、この島がなぜここにあるのかという問いへの、いちばん直接的な答えでもある。
明石海峡大橋を渡って岩屋に降り、南へ走れば、海沿いに小さな浦が続く。西へ回れば伊弉諾神宮があり、山を登れば弥生の工房跡がある。神話と、鉄と、断層。ひとつの島の北半分に、それだけのものが並んでいる。
よくある質問
淡路島が「最初に生まれた島」と言われるのはなぜですか?
『古事記』『日本書紀』の国生み神話で、伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)が最初に生んだ島が淡路島とされているためです。淡路市には伊弉諾神宮があり、市の市勢要覧はこれを国生み神話に関連する最古級の神社と紹介しています。
五斗長垣内遺跡とはどのような遺跡ですか?
淡路市の資料によれば、弥生時代後期の鉄器生産遺跡です。標高200メートルの丘陵上にあり、竪穴建物跡が23棟検出されました。細い棒状鉄製品、鉄板を切断した際の副産物である鉄片、長さ17.8センチ・幅4.8センチ・厚さ1.3センチの板状鉄斧などが出土しています。建物には大型・小型があり炉跡の有無で機能が分化していました。平成24年(2012年)9月19日に国の史跡に指定されています。
淡路市はいつできたのですか?
平成17年(2005年)4月1日です。津名町・淡路町・北淡町・一宮町・東浦町の5町が合併して誕生しました。淡路島の北部に位置し、明石海峡大橋で神戸とつながっています。
淡路市の産業にはどのような特徴がありますか?
市の市勢要覧によれば、線香は約170年の歴史があり国内生産高日本一です。吹き戻しは国内製造の約80%が淡路市産、カーネーションは約9.7ヘクタールで栽培され兵庫県出荷の9割以上が淡路島産とされています。いずれも重工業ではなく、手間のかかる軽工業と園芸である点が特徴です。
野島断層は見学できますか?
1995年の阪神・淡路大震災で地表に現れた断層が、北淡震災記念公園で保存されています。淡路市の資料も、野島断層が震災の断層として保存されていることを記しています。ずれた地面がそのままの状態で残されており、災害の記録であると同時に地球の動きを目で確認できる場所になっています。
この記事で参照した資料
- 淡路市「市勢要覧テキストバージョン」
- 淡路市「五斗長垣内遺跡」
- 兵庫県「令和7年国勢調査 人口速報の概要」
※本記事は上記の公表資料に基づいて構成しています。公式の裏付けが確認できなかった通説や伝承については、あえて記載していません。
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