中央区の歴史をたどる――港と居留地がつくった「神戸の顔」

三宮の交差点、旧居留地のレトロなビル群、北野の坂道と異人館、南京町のにぎわい、そして海に浮かぶポートアイランド。神戸市中央区には、「神戸らしい」と言われる風景のほとんどが集まっています。
では、なぜこれらの風景は「ここ」にあるのでしょうか。実は、そのほとんどが偶然ではなく、開港から160年近くにわたる街の歴史の必然としてそこにあります。今回は、中央区がどうやって「神戸の顔」になったのかを、時代を追ってたどってみます。中央区にお住まいの方でも「へえ」と思う話がきっとあるはずです。
「中央区」は神戸でいちばん新しい区名――1980年生まれ
意外に思われるかもしれませんが、「中央区」という区名は神戸9区の中でいちばん新しい名前です。誕生は1980年(昭和55年)12月1日。それまであった生田区と葺合区が合併(合区)して生まれました。
もとの2つの区は、1931年(昭和6年)9月の神戸市の区制施行でできたものです。生田区は三宮・元町・旧居留地・北野を含む旧市街の中心部、葺合区はその東側、生田川から旧西灘村との境までのエリア。つまり今の中央区は、「戦前からの神戸の都心」と「その東のまち」がひとつになった区なのです。
2つの区の境目だったのが、三宮の東を南北に走るフラワーロード。実はここには、もともと生田川が流れていました。明治のはじめ、大雨のたびに氾濫する生田川は市街地の東へ付け替えられ(1871年)、旧河道の跡地が道路になりました。この付け替え工事を私財を投じて行った実業家・加納宗七の名前は、神戸市役所のある町名「加納町」にいまも残っています。
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「神戸」という地名は中央区で生まれた――生田神社と806年の記録
そもそも「神戸(こうべ)」という地名のふるさとも中央区です。三宮の繁華街のすぐ北にある生田神社は、神功皇后元年(西暦201年)創建と伝わる古社。平安時代のはじめ、大同元年(806年)に朝廷からこの神社へ「神戸(かんべ)44戸」が与えられたという記録があります。
「神戸(かんべ)」とは、神社の維持のために税や労役を納める家のこと。この「かんべ」が「こんべ」になまり、やがて「こうべ」へ。つまり神戸という都市名は、生田神社を支えた44戸の集落の呼び名が起源とされているのです。
ちなみに「三宮」の地名も、生田神社の裔神をまつる三宮神社(現在はトアロードの南、旧居留地の西側)に由来します。「神戸」も「三宮」も、ルーツはどちらも中央区の神社。この街が神戸の中心になったのは、地名の上でも必然だったのかもしれません。
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10秒LINE査定 → 今いくら?がすぐわかる1868年の開港――港ができたのは「兵庫」ではなく神戸村だった
中央区の運命を決めたのは、なんといっても開港です。慶応3年12月7日、新暦でいえば1868年1月1日、幕末の条約に基づいて「兵庫」が開港しました。
ところが面白いことに、実際に港と居留地がつくられたのは、古くからの港町・兵庫津(今の兵庫区)ではありませんでした。外国人と住民の接触を避けたい幕府の意向もあり、兵庫津から約3.5km東に離れた小さな漁村・神戸村の沖、つまり今の中央区の海岸が「開港場」になったのです。
平清盛の大輪田泊以来、千年の歴史を持つ兵庫津ではなく、田畑と浜が広がる神戸村。この「場所選び」がなければ、三宮も旧居留地も北野もいまの姿はなかったわけで、中央区の歴史はここから一気に動き出します。
「東洋でもっとも美しい」と言われた居留地と、北野・南京町の誕生
開港とともに、現在の旧居留地の場所に外国人居留地が建設されました。設計したのはイギリス人土木技師のJ.W.ハート。碁盤目状の整然とした町割りに22街区・126区画を配し、幅約20mの街路や下水道まで備えた本格的な近代都市計画で、1871年には英字新聞The Far Eastが「東洋における居留地として、もっともよく設計された美しい街」と評したほどでした。
この126区画の町割りは、150年たった今の旧居留地にもほぼそのまま受け継がれています。旧居留地が今も「碁盤の目のきれいな街」なのは、明治初年の都市計画の遺産なのです。居留地は条約改正により1899年(明治32年)7月17日に日本へ返還され、その後は商社やビルが建ち並ぶビジネス街へと発展していきました。

一方で、居留地の造成は開港に間に合わず、区画も足りませんでした。そこで生田川より西、宇治川より東、山麓までの一帯で外国人と日本人が混ざって住む「雑居地」が認められます。山手の北野・山本通に外国人の住宅が建ち並んだのはこのためで、これが今の北野異人館街の始まりです。代表格の風見鶏の館(旧トーマス住宅・国指定重要文化財)は、ドイツ人貿易商の邸宅として1909年(明治42年)ごろに建てられました。

また、当時の清国は日本と通商条約を結んでいなかったため、中国の人々は居留地に住むことができませんでした。彼らが居留地のすぐ西側の雑居地で店を開き、暮らし始めたのが南京町のルーツとされます。異人館街も中華街も、「居留地に入れなかった人たちの街」として生まれた――中央区の多国籍な風景には、こんな背景があります。
神戸の中心は「引っ越し」してきた――三ノ宮駅の移転と市役所

今でこそ神戸の中心は三宮ですが、実はそうなったのは戦後のことです。
1874年(明治7年)、官設鉄道の大阪〜神戸間が開通し、初代の三ノ宮駅が開業しました。ただし場所は今の三宮ではなく、現在の元町駅のあたり。明治の繁華街は元町通や居留地周辺で、駅もそこに寄り添っていました。大正から昭和のはじめにかけては、さらに西の新開地(今の兵庫区)が映画館と劇場が建ち並ぶ市内随一の盛り場で、市役所も長くそちら側にありました。
転機は1931年(昭和6年)。東海道本線の高架化にあわせて三ノ宮駅が現在地へ「引っ越し」ます(旧駅の跡地には1934年に元町駅が開業)。1936年には阪急が三宮へ乗り入れ、私鉄と国鉄が集まるターミナルが形成されました。そして1957年(昭和32年)、神戸市役所が湊川から現在の加納町へ移転。行政・交通・商業がそろい、三宮は名実ともに神戸の中心になりました。
兵庫津 → 居留地・元町 → 新開地 → 三宮。神戸の重心は約150年かけて少しずつ東へ動き、中央区にたどり着いたのです。
山、海へ行く――ポートアイランドという「未来都市」
戦後の中央区で最大の事業は、海の上に街をつくることでした。1966年(昭和41年)、六甲山系を削った土砂で神戸港の沖を埋め立てるポートアイランドの建設が始まります。山を削って宅地をつくり、その土で海に新しい土地をつくる。「山、海へ行く」と呼ばれた神戸市の都市経営の代表作です。
15年をかけて436haの人工島が完成し、1981年(昭和56年)に「まち開き」。同年2月5日には三宮と島を結ぶポートライナーが開業しました。運転士のいない完全自動運転の新交通システムとしては世界初で、当時は「未来の乗り物」として大きな話題になりました。3月からは博覧会ポートピア'81が半年にわたって開かれ、当初の予想を大きく上回る来場者を集めています。
その後、1987年には第2期の埋め立てが始まり、2006年2月には沖合に神戸空港が開港。開港以来ずっと「海と共に」広がってきた中央区は、ついに市街地の南に空の玄関まで持つことになりました。
1995年1月17日――震災、そして復興
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災は、中央区にも大きな爪痕を残しました。三宮ではビルが倒壊し、あの生田神社の社殿も倒壊。旧居留地でも歴史的建築が失われました。
それでも街は立ち上がります。生田神社の社殿は翌年に再建され、旧居留地は歴史的景観を活かしたビジネス・商業の街として復興。葺合側の臨海部には復興のシンボルとして新都心「HAT神戸」が整備され、2002年には兵庫県立美術館も開館しました。メリケンパークには、被災したメリケン波止場の一部が震災当時のまま保存されています。港の歴史を伝えるこの一角は、中央区を訪れたらぜひ見ておきたい場所です。
歴史はいまも動いている――2030年の三宮へ
中央区の歴史は現在進行形です。三宮では今、「三宮再整備」と呼ばれる大規模プロジェクトが同時進行しています。雲井通5丁目では地上32階・約163mの新バスターミナルビルⅠ期が2027年度ごろの開業を目指して建設中。JR三ノ宮駅には地上30階・約155mの新駅ビルが2029年度に開業予定で、駅前の幹線道路を人中心の広場に変える「三宮クロススクエア」、ホテルの入る神戸市役所2号館の建て替え(2029年9月竣工予定)も進みます。
一方で神戸市は2020年7月から、三宮駅周辺の都心中心部で新しいタワーマンションの建設を規制しています。「都心は住宅より働く場・にぎわいの場に」という、全国でも珍しい都市政策です。開港で生まれ、震災を乗り越えた街は、2030年に向けてまた大きく姿を変えようとしています。
よくある質問
Q. 「神戸」という地名の由来は?
A. 中央区の生田神社に由来します。806年に朝廷が生田神社へ与えた「神戸(かんべ)44戸」(神社を支える家々)の呼び名が、かんべ→こんべ→こうべと変化したと伝わります。「三宮」も生田神社ゆかりの三宮神社が語源です。
Q. 旧居留地はなぜ今も整然とした美しい街並みなのですか?
A. 1868年の開港時にイギリス人技師ハートが設計した22街区・126区画の町割りが、現在までほぼそのまま受け継がれているためです。1871年には英字新聞に「東洋でもっともよく設計された美しい街」と評されました。近年は歴史的建築を活かした景観づくりが進められています。
Q. 中央区でいちばん「新しい土地」はどこですか?
A. ポートアイランドをはじめとする海の埋立地です。ポートアイランドは1966年に着工し1981年にまち開きした人工島で、2006年にはさらに沖に神戸空港が開港しました。区の南半分は、この150年でつくられた「新しい土地」です。
おわりに――「神戸の顔」は積み重ねでできている
こうして振り返ると中央区は、生田神社の門前の地(古代)→ 開港と居留地(明治)→ 三ノ宮駅移転と都心化(昭和)→ 海上都市ポートアイランド(高度成長期)→ 震災復興(平成)→ 三宮再整備(現在)と、時代ごとに新しい顔を重ねてきた街だと分かります。旧居留地の街路も、北野の異人館も、フラワーロードのゆるやかなカーブも、すべてに理由がある。そう思って歩くと、見慣れた三宮の風景が少し違って見えてくるのではないでしょうか。
私たちは中央区・京町で神戸の不動産売却に携わる会社として、こうした街の成り立ちを知っておくことを大切にしています。このブログでは、神戸の街と暮らしにまつわる話をこれからも書いていく予定です。
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※本記事の歴史的事実は、神戸市公式資料(BE KOBE 神戸の近現代史・中央区の歴史解説ほか)、神戸旧居留地オフィシャルサイト、生田神社公式サイト、国指定重要文化財の公式解説等の公開資料に基づいています。
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