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兵庫県を知る

兵庫県の歴史をたどる――五つの国がひとつになった日から150年、土地の履歴が値段をつくる

2026.08.06
姫路城。兵庫県の歴史記事のアイキャッチ(写真:ja:User:Reggaeman, Public domain, Wikimedia Commons)

兵庫県で家や土地を売ろうとするとき、多くの方がまず「兵庫県の相場」を調べます。けれど兵庫県は、そもそもひとつの県として自然に生まれた土地ではありません。摂津・播磨・但馬・丹波・淡路——気候も産業も、言葉のイントネーションさえ違う五つの国が、明治の政治判断でひとつに束ねられてできた県です。

そして、そのかたちが決まったのは1876年(明治9年)8月21日。2026年8月21日で、ちょうど150年になります。

この記事は、その150年と、その前にあった千数百年をたどる読み物です。売却のノウハウの話はほとんど出てきません。ただ、読み終えたときには「なぜあの街は高いのか」「なぜこちらの土地は買い手が慎重なのか」という問いに、自分なりの見立てを持てるようになっているはずです。土地の値段は、その土地が経てきた歴史の要約だからです。

兵庫県を構成する摂津・播磨・但馬・丹波・淡路の五国と、それぞれに含まれる市町の模式図
兵庫県は、旧国でいえば五つの国にまたがっています。位置関係を示す模式図です。

兵庫県は、ひとつの国だったことがない

兵庫県の面積は8,400.95平方キロメートル。全国12番目の広さで、日本海にも瀬戸内海にも面しています(兵庫県公式)。北の日本海側は冬に雪が積もり、南の瀬戸内側は年間を通じて雨が少なく温暖です。同じ県の中で、住宅の断熱の考え方も、屋根のつくりも変わってきます。

この極端さは、県のなりたちに理由があります。兵庫県の県域は、律令時代の旧国でいえば摂津・播磨・但馬・丹波・淡路の五つにまたがっています。県自身も「気候風土、歴史文化の異なる旧五国がひとつになった県」と説明しており、いまも「五国」という言い方を公式に使っています。

おもしろいのは、県庁所在地である神戸市そのものが、二つの国にまたがっていることです。中央区や灘区、東灘区は旧摂津国ですが、西区と垂水区は旧播磨国の明石郡にあたります(神戸市西区公式)。つまり神戸市内で東西に移動するだけで、千年以上前の国境をまたぐことになる。同じ市内でも街の性格がまるで違うのは、区の線引きの問題だけではないのです。

ちなみに、赤穂市の福浦地区は昭和38年の越県合併で岡山県から兵庫県に移った土地で、旧国でいえば備前にあたります。「五国」といいますが、厳密にはもう少し複雑です。

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「兵庫」という名前は、実はよくわかっていない

県名の由来については、はっきりさせておきたいことがあります。よく紹介されるのは「兵器を納める倉庫=兵庫(つわものぐら)が置かれたことに由来する」という説で、国土交通省の事務所のサイトなどはこの説を採用しています。

ところが、兵庫県自身は公式サイトのQ&Aで、この説に触れたうえで「よくわかっていません」とはっきり書いています。県が自分の名前の由来について「わからない」と明記しているわけです。地名の由来は、断定的に語られているものほど根拠が薄いことがあります。私たちも、地名から土地の成り立ちを読むときは、この距離感を大事にしています。

確かなのは、「兵庫」が現在の神戸市兵庫区あたりの地名だということ。鎌倉時代には「兵庫の津」と呼ばれた港町で、県名はその港の名から取られました。人口約150万人の神戸市ではなく、その一角の港の名前が、約530万人の県の名前になっている。これも兵庫県の出自を物語っています。

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1868年、26歳の初代知事

兵庫県が誕生したのは、慶応4年5月23日(1868年)。この年の1月1日には神戸港が開港しています(開港時の名称は「兵庫」で、正式に「神戸港」となるのは1892年)。開港直後の混乱のなかで、幕府の兵庫勤番所が兵庫役所となり、兵庫鎮台、兵庫裁判所と名を変え、5月23日に「兵庫県」が置かれました。

その初代知事に任じられたのが、伊藤俊介——のちの伊藤博文です。当時26歳。開港直後に起きた神戸事件(備前藩兵と外国兵の衝突)の処理にあたった手腕が評価されての抜擢だったと、県は説明しています。

もっとも、その後の知事の任期は驚くほど短い。明治2年だけで久我通城、中島錫胤、陸奥宗光と3人が入れ替わっています。維新直後の兵庫県が、いかに流動的な組織だったかがわかります。

そして、このときの兵庫県は今とはまるで違う姿でした。県の公式サイトの表現を借りれば、当初の県域は「神戸港を中心にした小さなもので、いくつもの飛地からなる島のような形」。摂津国のごく一部を管轄するだけの、小さな県でした。

1902年に建てられた4代目兵庫県庁舎、現在の兵庫県公館と桜
1902年に落成した4代目の県庁舎。フランス・ルネサンス様式で、現在は兵庫県公館として使われています。写真:663highland(CC BY 2.5, Wikimedia Commons)

1876年8月21日、五国がひとつになった

1871年(明治4年)の廃藩置県で、いまの兵庫県域には30を超える県が乱立しました。これがすぐに整理され、同年11月には四つの県に再編されます。

兵庫県(摂津の一部)、飾磨県(播磨全域)、豊岡県(但馬全域と丹波・丹後)、名東県(阿波と淡路)。この四つです。

そして明治9年8月21日、政府の通達により、飾磨県の全域、豊岡県のうち但馬全域と丹波2郡(多紀・氷上)、名東県のうち淡路全域が兵庫県に編入されました。ここで現在の県域が確定します。

1871年の四県から1876年に新兵庫県が成立するまでの統合の流れを示した図
飾磨・豊岡・名東の各県から領域を集めて、いまの兵庫県のかたちができました。

県はこの統合の狙いを「大久保利通の指示のもと、開港場兵庫県の強化を目的とした広域県が形成された」と説明しています。つまり兵庫県は、神戸という港を経済的に支えるための後背地として設計された県だということです。日本海側の但馬も、内陸の丹波も、瀬戸内の播磨も、島である淡路も、「神戸港を持つ県を大きくする」という一点で束ねられました。

このとき豊岡県の丹後全域と丹波の天田郡は京都府へ移りました。同じ「丹波」でも、多紀・氷上の2郡だけが兵庫県に残ったのはそのためです。丹波市・丹波篠山市が兵庫県で、福知山市が京都府なのは、150年前のこの線引きの結果です。

淡路島はさらに複雑で、廃藩置県ではいったん阿波(徳島)側の名東県に入り、明治9年に兵庫県へ移りました(兵庫県淡路県民局)。淡路島の人が「関西弁だけど少し徳島寄り」と言われることがあるのは、偶然ではありません。

ここからは、その五国をひとつずつ歩いていきます。その前に、兵庫県の街のかたちを決めた出来事を、時代順に並べておきます。

713年から1998年までの兵庫県の主要な出来事二十件を並べた年表
古代の風土記から明石海峡大橋まで。街のかたちが決まった二十の出来事です。

摂津——千年前から、ここは港だった

神戸が港町になったのは、開港の1868年からではありません。奈良時代の僧・行基が整備したと伝わる「摂播五泊」のひとつ、大輪田泊がその原型です。

ここを国際貿易港に変えようとしたのが平清盛でした。1173年(承安3年)、清盛は私財を投じて大輪田泊を改修し、防波堤の役割を果たす人工島「経ヶ島」を築きます。神戸で最初の大規模な埋立ては、850年前に行われていたことになります。

1180年には福原(現在の兵庫区周辺)へ都が移されました。ただしこの都は長続きせず、約170日で京へ戻ります。神戸が日本の首都だった期間は、半年に満たなかった。

それでも港は残りました。中世から近世にかけて、兵庫津は北前船が寄る物資の集散地となり、北風家や高田屋といった豪商が力を持ちます。「兵庫津に北風あり」と言われた時代です。

そして1868年1月1日の開港。翌年にかけて外国人居留地が造成されます。設計はイギリス人のハートで、22街区126区に整然と区画されました。この居留地が日本に返還されたのは1899年7月17日、不平等条約の改正によるものです。

いま神戸の旧居留地を歩くと、道路が驚くほど直線的で、街区が整っていることに気づきます。あれは明治初期の区画がほぼそのまま残っているからです。150年前の測量が、いまも土地の資産価値を左右している——不動産の仕事をしていると、そういう場面に何度も出会います。

阪神間——住宅地は、鉄道会社がつくった

兵庫県の不動産を理解するうえで、いちばん重要なのがこの章かもしれません。

いま「阪神間」と呼ばれる芦屋・西宮・宝塚・伊丹一帯は、明治の半ばまで田畑と村の広がる土地でした。それが日本有数の住宅地に変わったのは、鉄道会社が住宅地そのものを商品としてつくったからです。

1895年から1924年までの阪神間モダニズムの主要な出来事を並べた年表
別荘地、鉄道、劇場、球場、百貨店。三十年で阪神間の性格が決まりました。

順に見ていきます。1895年(明治28年)、イギリス人のA.H.グルームが六甲山上の三国池付近に別荘を建てます。1901年にゴルフコースを開き、1903年には日本最初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」が発足。1910年には六甲山上の別荘が56軒に増えていました(神戸市歴史公文書館)。「六甲山麓は涼しく眺めがよい」という評価は、この時期に外国人によって発見されたものです。

1905年(明治38年)、阪神電気鉄道が大阪〜神戸間で開業します。日本初の高速広軌の都市間電気鉄道でした。1907年に設立された箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は1910年に開業し、同じ1910年に小林一三が池田室町の住宅地分譲を始めています。鉄道と住宅地の分譲が、最初から一体の事業だったことがわかります。

1913年に宝塚唱歌隊が結成され、1914年4月1日、プールを改造したパラダイス劇場で宝塚少女歌劇の第1回公演が行われます。演目は歌劇『ドンブラコ』ほか、観覧は無料でした。1920年7月16日には阪急神戸線(梅田〜神戸・上筒井)が開通。1924年8月1日には収容8万人の甲子園大運動場が開場し、1929年には梅田に阪急百貨店ができます。

この三十年で起きたことを一言でいえば、「人が住んでいるから電車を通した」のではなく、「電車を通すために住宅地をつくった」ということです。学校、劇場、遊園地、球場、百貨店——沿線価値を上げるための装置が、企業の判断で次々に置かれていきました。

阪神間や神戸の山手が、いまも浜手より高く評価される傾向があるのは、この百年の積み重ねの結果です。逆にいえば、それは自然法則ではなく歴史の産物なので、時代が変われば動く可能性もある。実際、近年の湾岸エリアの再評価はその一例です。

灘と伊丹——水と米が、江戸の酒の八割をつくった

摂津の話をもうひとつ。灘五郷の酒です。

灘が酒どころになった条件は三つあります。第一に、六甲山から瀬戸内へ一気に落ちる急流。この水流で大規模な水車精米が可能になりました。第二に、船で江戸へ直送できる港が近かったこと。1730年(享保15年)には酒専用の樽廻船が成立します。第三に、水です。

1840年(天保11年)、魚崎村の山邑太郎左衛門が、西宮と魚崎で同じように仕込んでも酒の出来が違うことに気づき、西宮の水を使ったところ同等の酒ができた——これが「宮水」の発見です(神戸市『特集 灘の酒造業』)。

結果は数字に出ています。江戸積みの酒に占める灘のシェアは、1815年に51%、1821年に57%。江戸時代末期には年間100万樽が江戸へ下り、江戸で飲まれる酒の8割が灘をはじめとする「下り酒」でした(文化庁 日本遺産)。

その前の時代の主役は伊丹です。麹米と掛米の両方に精白米を使う「諸白」の技術で知られ、「伊丹諸白」は江戸で高値で取引されました。2020年6月19日には「『伊丹諸白』と『灘の生一本』」が日本遺産に認定されています。

不動産の目で見ると、酒蔵地帯は「水が良い=地下水脈がある」土地でもあります。灘・西宮の一帯で古い地名や地下水の話が出てくるのは、この歴史の名残です。

播磨——城と、塩と、鉄と、時間

県の西半分、播磨に移ります。ここは兵庫県のもうひとつの重心です。

世界文化遺産・国宝の姫路城大天守
姫路城。現在の大天守は池田輝政が1601年から1609年にかけて築いたものです。写真:Bernard Gagnon(CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons)

播磨には、日本に5つしか現存しない風土記のひとつ『播磨国風土記』があります。編纂が命じられたのは713年(和銅6年)。写本は1852年に発見され、いまは国宝として天理図書館にあります。千三百年前の地名の由来が、いまも読める土地なのです。

姫路城の現在の大天守は、池田輝政が1601年から1609年(慶長14年)にかけて築いたものです。1951年に国宝、1993年12月に世界文化遺産に登録されました(法隆寺地域の仏教建造物と同じ時期の登録です)。2009年4月から2015年3月まで、いわゆる平成の大修理が行われました。

赤穂は塩の町です。浅野長直が尾崎・御崎の海岸で大規模な入浜塩田の開発に成功し、「日本第一」と称される塩の産地になりました。2019年には日本遺産に認定されています。そして1701年から1703年の赤穂事件。元禄14年3月14日の刃傷から、元禄16年2月4日の四十六士切腹まで、わずか2年足らずの出来事でした。

播磨は、ものづくりの土地でもあります。播州そろばん(小野市)は天正8年=1580年の三木城攻めの際に大津から製法が伝わったとされ、いまも全国の約7割を生産しています。三木の金物も1578年の三木城攻めからの復興が礎になりました。播州織(西脇市ほか)は1792年(寛政4年)が起源。龍野の淡口醤油は、1587年に円尾孫右衛門長村が醸造を始め、寛文年間(1660年代)に色の淡い醸造法が発案されたと伝わります。

そして明石。1886年(明治19年)の勅令で東経135度の子午線の時刻を日本の標準時とすることが定められ、1888年1月1日から施行されました。日本の時間の基準線が、兵庫県を南北に貫いているわけです。明石市立天文科学館は1960年6月10日の開館。設置されたカール・ツァイス・イエナ製の投影機は、日本で最も長く稼働しているプラネタリウムです。阪神・淡路大震災でも塔は倒れませんでした。

現在の播磨臨海地域は、製造品出荷額7.5兆円で全国第2位の工業地帯です。姫路港のLNG輸入量は全国3位、東播磨港の鉄鉱石輸入量も全国3位(兵庫県資料)。「兵庫=神戸」という印象を持たれがちですが、県の産業を支える重心はむしろ西にあります。

但馬——銀の山、鞄の町、そして帰ってきたコウノトリ

県北部の但馬は、兵庫県のなかで最も知られていない地域かもしれません。けれど歴史の密度はきわめて濃い。

標高353メートルの山上に石垣が残る竹田城跡
竹田城跡(朝来市)。標高353mの山上に石垣が残ります。1600年に廃城となりました。写真:Baku13(CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons)

生野銀山(朝来市)は、大同2年=807年の開坑と伝えられますが、朝来市自身が「詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明」と注記しています。確かなのは1542年(天文11年)に本格的な採掘が始まり、織田・豊臣・徳川の直轄鉱山として栄え、1868年に政府直轄の官営鉱山となり、1973年に閉山したことです。

竹田城跡は、嘉吉年間(1443年頃)に但馬守護・山名宗全が太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされ、1585年に赤松広秀が入って石垣を整えました。1600年に廃城。1943年に国史跡に指定されています。

出石には、1604年に小出吉英が築いた出石城があり、1706年から明治維新までは仙石氏が治めました。町のシンボルである辰鼓楼は1871年(明治4年)に旧三の丸大手門脇の櫓台の上に建てられたものです。出石の町並みは2007年12月4日、約23.1haが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

1871年に建てられた出石の辰鼓楼
出石の辰鼓楼(豊岡市)。1871年に櫓台の上に建てられました。写真:Samchan91(CC BY-SA 4.0, Wikimedia Commons)

城崎温泉は、717年に道智上人が訪れ、千日の修行の末に720年(養老4年)に湧いたと伝わります。2020年が開湯1300年でした。

豊岡の鞄産業は、1668年に柳行李が豊岡藩の独占取扱品になったことに始まり、1881年に八木長衛門が「行李鞄」を創作したことで近代産業になりました。1953年頃には全国生産の8割を占め、2006年には「豊岡鞄」が地域団体商標として認定されています。

そしてコウノトリ。1971年、豊岡市内で保護された最後の1羽が死に、日本の野生のコウノトリは絶滅しました。1999年に兵庫県立コウノトリの郷公園が開園し、2005年9月24日に試験放鳥を開始。2007年には野外での巣立ちに成功し、2025年6月30日には野外の個体数が500羽に達しました。いちど完全にゼロになった種が、54年かけて500羽まで戻った。これは但馬という土地が積み上げた、もうひとつの歴史です。

丹波——八百年の窯と、黒い豆と、恐竜

丹波は、兵庫県の内陸部にあたります。丹波篠山市と丹波市の2市。2019年5月1日、篠山市は住民投票(2018年11月18日、投票率69.79%、賛成13,646票・反対10,518票)を経て「丹波篠山市」に市名を変更しました。市名を変えるために住民投票を行った、全国的にも珍しい事例です。

篠山城は1609年(慶長14年)の築城。諸大名が動員される「公儀普請(天下普請)」で建てられ、縄張を担当したのが藤堂高虎でした。1956年に国史跡。姫路城の大天守と同じ年に完成しているというのは、当時の徳川政権が西国をどう見ていたかを物語ります。

丹波焼は日本六古窯のひとつで、起源は平安時代末期。約800年の歴史があります。慶長末年頃(1610〜1615年)に登窯が導入され、今田町の上立杭・下立杭・釜屋の一帯にいまも約60軒の窯元があります。1977年に「丹波立杭焼」として国の伝統的工芸品に指定されました。

丹波黒大豆については、1730年刊の『料理綱目調味抄』に「くろ豆は丹州笹山の名物なり」とあるのが最古の確実な記録です。2021年2月19日、「丹波篠山の黒大豆栽培」は日本農業遺産に認定されました。丹波篠山市の栽培面積は581ha、生産農家は2,660戸(令和元年)。

そして丹波竜。2006年に丹波市で発見された竜脚類の恐竜化石で、2014年8月にTambatitanis amicitiae(タンバティタニス・アミキティアエ)と命名されました。種小名は、発見した二人の友情に由来します。推定全長は10数メートル。兵庫県の内陸には、白亜紀前期の地層がそのまま残っています。

淡路——国生みの島と、1メートル伸びた橋

淡路島は、『古事記』『日本書紀』の国生み神話で最初に生まれた島とされています。2016年4月には「『古事記』の冒頭を飾る『国生みの島・淡路』」として日本遺産に認定されました。

奈良時代には、天皇の食膳を支える「御食国」として塩や海産物を都に納めていました。『延喜式』では、朝廷の重要な儀式に使う塩が「淡路の塩」と定められています。

淡路人形浄瑠璃は、義太夫節による三人遣いの人形芝居で、1976年5月4日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。文楽にはない演目や特殊演出が残っています。

淡路瓦は、1613年(慶長18年)に明石から瓦職人を招いて屋根瓦の製造が始まり、寛永年間(1624〜1643年)に津井地区で本格化しました。1997年に県の伝統的工芸品「淡路鬼瓦」に指定されています。

たまねぎの栽培は1888年(明治21年)、米国から輸入した種子を賀集村(現・南あわじ市)で試験栽培したのが始まりです。1923年に「淡路中甲高」が育成され、1900年頃から酪農を組み合わせた循環型の農業が確立しました。牛ふん堆肥を使うことで、100年以上にわたり連作障害が出ていないとされ、2021年2月19日に日本農業遺産に認定されています。

全長3911メートルの明石海峡大橋
明石海峡大橋。1998年4月5日開通、橋長3,911m、中央支間長1,991m。写真:m-louis .®(CC BY-SA 2.0, Wikimedia Commons)

そして明石海峡大橋。1986年4月に着工し、1998年4月5日に開通しました。橋長3,911m、中央支間長1,991m、主塔は海面上約300m。

この橋には、兵庫県の歴史を象徴する逸話があります。1995年1月17日の地震が起きたとき、橋は両主塔が立ち上がりメインケーブルを架けている最中でした。地震で基礎が載っている地盤そのものが動き、橋の長さが約1.1m伸びることがわかったのです。中央支間長は1,990mから1,991mへ設計変更されました。すでに完成していた桁を架け直したのではなく、まだ製作していなかった桁パネルの長さを調整して対応した——というのが事業者(JB本四高速)の公式の説明です。

地面が動いた分だけ、橋の設計図を書き換えた。兵庫県の土地は、そういうことが実際に起きる土地です。

兵庫の街は、三度つくり直されている

ここからは、不動産の目でいちばん重い話をします。兵庫県は、近代以降だけで三度、街を大きくつくり直しています。

北但馬地震・阪神大水害・阪神淡路大震災の被害と、そのあとに変わった制度をまとめた図
災害のあとに何が変わったかを見ると、いまの街の形の理由がわかります。

1925年5月23日、北但馬地震。マグニチュード6.8。兵庫県全域で死者421人(豊岡市の記録では420人)。豊岡町では総戸数の86.6%にあたる1,887戸が倒壊・焼失し、城崎も壊滅しました。そのあと豊岡は大開通りなどの幅員を約11.8mに拡げて歩道を設け、鉄筋コンクリート造の建物に1坪あたり50円の補助金を出しました。48人がこれを利用しています。城崎も外湯や町役場を鉄筋コンクリートで再建し、大谿川の川幅を広げ、玄武洞の玄武岩で護岸を固めました。いま豊岡の中心部の道が広く、城崎の景観が整っているのは、百年前の被災の結果です。

1938年7月3〜5日、阪神大水害。総雨量461.8mm、1時間最大60.8mm。神戸市の記録で死者616名・被災家屋約9万戸、国土交通省の資料では死者・行方不明者695名とされています(集計範囲が異なるため数値に幅があります)。この水害を受けて同年9月に国の砂防組織が置かれ、翌1939年から六甲山系の直轄砂防事業が始まりました。2004年3月の時点で砂防堰堤は511基。

この意味は大きい。六甲山の南麓に人が住み続けられているのは、八十年以上にわたる砂防事業の上に成り立っているということです。1967年の水害は1日雨量も1時間雨量も阪神大水害を上回りましたが、被害はかなり小さく収まりました。神戸市自身が河川改修の効果としてこれを記録しています。

1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災。マグニチュード7.3、最大震度7。2006年5月19日の消防庁確定値で、兵庫県内の死者6,402人、住家全壊104,004棟、半壊136,952棟。全国では死者6,434人です。

震度7が観測されたのは、須磨区鷹取から長田区大橋、兵庫区大開、中央区三宮、灘区六甲道、東灘区住吉、芦屋、西宮の夙川付近へと続く帯状の地域と、宝塚市の一部、淡路島北部でした。この帯が、いまも「震災の帯」と呼ばれています。埋立地であるポートアイランドや六甲アイランドでは、液状化による噴砂が各所で発生しました。

神戸市は震災から2か月後の1995年3月17日に復興都市計画を決定します。土地区画整理事業は当初6地区・124.6haで決定し、最終的に11地区・143.2ha(2011年3月完了)。市街地再開発事業は六甲道駅南と新長田駅南の2地区・25.9haでした。市の別の資料では、市施行・組合施行あわせて13地区としています。

神戸市灘区の六甲道駅周辺や長田区の新長田駅周辺の街並みが、周囲と明らかに違うのはこのためです。あの一帯の道路の広さも、建物の新しさも、区画の整い方も、震災復興事業の産物です。

三度の災害が、家のルールを変えてきた

災害は、街の形だけでなく、家に適用されるルールも変えてきました。売却の場面で効いてくるのは、主に次の四つです。

1981年6月1日——新耐震基準。この日以降に建築確認を受けた建物かどうかが、いまも中古住宅の評価を分ける最初の分岐点です。

2000年6月1日——いわゆる2000年基準。木造住宅について、接合部の仕様や四分割法による耐力壁の配置など、仕様規定が明確化されました。同時期の告示で、地盤の許容応力度に応じて基礎の形式を選ぶ考え方も定められています。「2000年に地盤調査が義務化された」と説明されることがありますが、国土交通省の文書でそう明記されているわけではありません。正確には「地盤の状態に応じた基礎構造が求められるようになった」というのが実態です。

2020年8月28日——水害ハザードマップの説明義務化。宅地建物取引業法施行規則の改正により、不動産取引の重要事項説明で、水防法に基づくハザードマップにおける対象物件の所在地を示すことが義務になりました。売主にとっては、自分の物件がどう説明されるかを事前に把握しておく意味があります。

2023年5月26日施行——盛土規制法。兵庫県内の規制区域の指定は、神戸市が2024年4月1日から(市域の全域が宅地造成等工事規制区域)、県が指定する区域の多くは2025年4月1日からです。加古川市・宝塚市・川西市・三田市など、事務を処理する市が別に定められている市町もあります。造成地や擁壁のある土地を売るときは、まずどの主体のどの区域かを確認する必要があります。

あわせて、兵庫県には「兵庫県建築基準条例」のがけの規定があります。地表面が水平面に対して30度を超える土地を「がけ」とし、がけの上下の建築物までの水平距離をがけの高さの1.5倍以上(高さ2m以下や安全上支障がない場合は1倍以上)確保することを求めるものです。神戸市域では市の独自条例が適用されます。県内の土砂災害警戒区域は21,553か所、特別警戒区域は12,813か所(2026年6月30日現在)。ちなみに尼崎市・稲美町・播磨町には土砂災害警戒区域の指定がありません。

家の値段は、その土地の履歴の要約である

ここまで、千三百年ぶんの話をしてきました。最後に、それが売却にどうつながるのかを整理します。

兵庫県で不動産を売る前に確認したい地形・年代・災害履歴・法規制の四つの視点
土地の履歴を四つの軸に分けると、査定額の理由が見えやすくなります。

兵庫県の不動産価格は、単に「駅から近いか」「築何年か」だけでは説明がつきません。実際に査定をしていると、価格差の理由の多くが、この記事で挙げてきた歴史の層に行き着きます。

山手が評価されるのは、百年前に外国人が六甲山麓を見出し、鉄道会社が住宅地として磨いたから。浜手の一部が慎重に見られるのは、そこが埋立地や旧河道で、1995年に液状化を経験したから。六甲南麓に安心して住めるのは、1938年の水害以降、八十年以上砂防事業が続いているから。六甲道や新長田の街並みが整っているのは、震災復興の区画整理が入ったから。播磨の工業地帯周辺に一定の需要があるのは、7.5兆円の産業がそこにあるから。但馬や丹波の相場が都市部と違う論理で動くのは、そもそも県として編入された経緯からして、別の国だったから。

だから私たちは、査定の前に必ずその土地の来歴を見ます。古い地形図、造成の年代、擁壁の仕様、周辺の地名、指定区域。買主も金融機関も、結局は同じところを見ています。売主が自分の土地の履歴を先に把握しているかどうかで、交渉の主導権は変わります。

1876年8月21日から150年。五つの国は、いまも五つの顔のまま兵庫県の中にあります。「兵庫県の相場」という言葉が意味を持ちにくいのは、この県がそもそもそういう成り立ちだからです。大切なのは県の平均ではなく、あなたの土地が、どの国の、どの時代の、どんな履歴の上に建っているかということです。

よくある質問

兵庫県はいつできたのですか

兵庫県が最初に置かれたのは慶応4年5月23日(1868年)で、初代知事は当時26歳の伊藤博文(伊藤俊介)でした。ただしこのときの県域は神戸港周辺のごく一部で、現在の県域が確定したのは明治9年(1876年)8月21日です。飾磨県・豊岡県・名東県から領域を編入したこの日が、実質的な「いまの兵庫県」の誕生日にあたります。

兵庫県の「五国」とは何ですか

摂津・播磨・但馬・丹波・淡路という五つの旧国のことです。兵庫県はこの五国にまたがっており、県公式も「気候風土、歴史文化の異なる旧五国がひとつになった県」と説明しています。なお、赤穂市福浦地区は昭和38年に岡山県から編入された旧備前国にあたるため、厳密には五国だけではありません。

なぜ淡路島は徳島県ではなく兵庫県なのですか

江戸時代の淡路は阿波藩(蜂須賀氏)の支配下にあり、明治4年の廃藩置県ではいったん徳島県が改称した名東県に属していました。その後、明治9年に兵庫県へ編入され現在に至ります(兵庫県淡路県民局)。開港場である神戸を抱える県を広域化するという政府の方針のなかで、領域が組み替えられた結果です。

兵庫県で不動産を売るとき、土地の歴史を調べる意味はありますか

あります。造成の年代や地形の成り立ちは、擁壁の仕様、地盤の評価、ハザードマップ上の位置づけに直結し、買主の判断や金融機関の融資姿勢に影響します。2020年8月28日以降は水害ハザードマップにおける物件所在地の説明が宅建業者の義務になっており、2023年施行の盛土規制法の規制区域も市町ごとに指定されています。事前に把握しておくことで、交渉の途中で条件が動くリスクを減らせます。

兵庫県の相場を調べても、自分の家の値段がわからないのはなぜですか

兵庫県は旧五国にまたがり、日本海側と瀬戸内側で気候も産業もまったく違うため、県全体の平均値は個別の物件の実勢とかけ離れやすいからです。実務上は、県や市町の平均ではなく、同じ地形・同じ造成年代・同じ沿線という条件をそろえた事例と比較する必要があります。

私たち株式会社Estate&Co.は、兵庫県の不動産売却を専門に扱っています。神戸市の各区については、区ごとの歴史と相場を別の記事にまとめていますので、ご自身の地域のものをあわせてご覧ください。

売却の費用と税金については兵庫区の不動産売却にかかる費用と税金をあわせてご覧ください。

※本記事の年号・数値は、兵庫県、神戸市・姫路市・豊岡市・朝来市・赤穂市・丹波篠山市・尼崎市・伊丹市・淡路市・南あわじ市の各公式サイト、文化庁、国土交通省、内閣府防災、気象庁、農林水産省、阪神電気鉄道・阪急阪神ホールディングス・宝塚歌劇・JB本四高速の公表資料に基づいています(2026年8月時点)。伝承・諸説のあるものはその旨を本文に明記しています。


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