伊丹の歴史をたどる――行基の池、惣構の城、公家の町、そして空港までの1300年

伊丹市は、兵庫県内でもかなり特殊な市である。面積は市域が阪神間ではコンパクトな部類で、市内にある鉄道駅は伊丹(JR・阪急)、新伊丹、稲野、北伊丹の四つしかない。それでいて人口は約19万5千人。県内でも屈指の人口密度を持つ。
そしてこの狭い市域に、奈良時代の寺院跡、8世紀の溜池、戦国の惣構城郭、江戸時代の酒蔵、そして日本を代表する空港が同居している。時代の層がこれほど近い距離に折り重なっている街は、そう多くない。
この記事では、伊丹市公式の資料をたどりながら、その層を順に見ていく。
猪名川と武庫川に挟まれた台地
伊丹の歴史を理解するには、最初に地形を押さえておくとよい。
伊丹市は、東を猪名川、西を武庫川に挟まれた台地の上にある。この台地は「伊丹台地」と呼ばれ、周囲の低地よりわずかに高い。標高差はさほど大きくないが、洪水に対する強さはまるで違う。
市の資料が、縄文・弥生の遺跡が猪名川流域に集中していると記すのは、この地形と関係している。水は必要だが、水に浸かってはいけない。川のそばで、しかも少し高い場所。人が住みつく条件として、これ以上のものはない。
ただし台地には弱点がある。川が近いのに、水が引きにくいのだ。川面より土地が高ければ、水は自然には上がってこない。だから溜池が要る。行基が池を掘った理由はここにある。
この「高くて平ら」という条件は、時代が下るほど別の意味を持ち始める。戦国時代には、堀と土塁で囲むのに都合がよかった。山城のように険しい地形に頼れないぶん、人工の防御施設を大規模に築く必要があり、それが惣構という発想につながった。
そして20世紀には、滑走路を敷くのに都合がよかった。広く平坦で、地盤が安定していて、大阪市街に近い。大阪国際空港がこの場所に置かれたのは偶然ではない。
ひとつの地形が、灌漑の課題になり、防御の利点になり、航空インフラの適地になった。伊丹の歴史は、同じ土地の読み替えの歴史である。
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行基は、なぜ池を掘ったのか

伊丹の歴史で最初に名前が出てくる人物は、行基(668〜749年)である。奈良の大仏造立に関わったことで知られる僧だ。
伊丹市の公式サイトによれば、行基は8世紀前半に昆陽池(こやいけ)を築造した。目的は灌漑と治水で、市の説明では「長い間地域の田畑を潤すとともに洪水を防いできた」とされる。伊丹では灌漑用水池を5つ、溝を2本つくり、さらに昆陽布施屋(こやふせや)を開いたという。
布施屋というのは、旅人のための無料の宿泊・救護施設である。市の資料は、これによって「多くの村人・旅人を飢えや病気から救った」と記す。公共事業と福祉施設を同時に手がけていたということだ。
ここで考えたいのは、なぜ行基がここに池をつくったのかである。伊丹台地は猪名川と武庫川に挟まれた高台で、川はあっても水は取りにくい。だから水を溜める必要があった。この地形の制約が、1300年前の土木工事を呼び、その土木工事が伊丹という町の基礎になった。
昆陽池はその後も残り続けた。江戸時代には周囲1里(約4キロ)とされる大池だったという。昭和36年(1961年)に東側が埋め立てられて約3分の2の大きさになり、昭和47年から野鳥公園として整備された。いま渡り鳥が羽を休める水面は、1300年前の灌漑池の生き残りである。
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伊丹市には伊丹廃寺跡という国史跡がある。奈良時代に建てられた寺院の跡で、いまは基壇だけが公園として保存されている。
「廃寺」という言い方は少し寂しく聞こえるが、要はいつ、誰が建て、いつ失われたのかが記録に残っていない寺ということだ。名前すら分からない。それでも、塔と金堂の基壇が地面に残っている。
奈良時代にこの規模の寺を建てられたということは、それだけの財力を持つ豪族がこの地にいたということである。行基の池と、名前の分からない寺。古代の伊丹は、記録が乏しいわりに、地面の下には確かな痕跡を残している。
市の資料によれば、縄文・弥生時代の遺跡は猪名川流域に集中しており、口酒井(くちさかい)遺跡が代表的なものとして挙げられている。人が住み始めた場所は、やはり川のそばだった。
伊丹氏は、摂津の三分の一を握っていた
中世に入ると、この地に伊丹氏という武士が現れる。市の資料によれば、伊丹氏が武士として台頭するのは14世紀頃。南北朝時代には摂津国の三分の一を支配したという。
摂津国は、いまの大阪市北部から神戸市東部までを含む広い国である。その三分の一を、一地方の武士が押さえていた。伊丹という地名が土地の名として全国区になったのは、この時期である。
伊丹氏は伊丹城を約300年にわたって維持した。三百年というのは、戦国大名の平均寿命からするとかなり異例の長さである。それだけこの城の立地が堅かったということだろう。
1574年、城の名前が変わった

三百年続いた伊丹氏の時代は、突然終わる。
伊丹市公式の有岡城跡のページはこう記す。1574年11月、織田信長の武将・荒木村重が伊丹城に入城し、「有岡城と改めて、大改造をおこないました」。伊丹氏は追われ、城の名前も変わった。
荒木村重が行った「大改造」は、日本の城郭史の中でも特筆される。惣構(そうがまえ)という方式である。
市の説明によれば、有岡城は東西800メートル、南北1,700メートルの範囲を堀と土塁で囲んだ総構型の城郭だった。囲われていたのは本丸だけではない。侍町も、町屋地区もまとめて城壁の内側に入れた。北・西・南には三つの砦を配置している。
つまり有岡城は、城というより要塞化された町だった。町ごと守る。この発想は、のちに豊臣秀吉が大坂城でさらに大規模に採用することになる。日本の惣構城郭の先駆けのひとつが、いまのJR伊丹駅前にあった。
十か月の籠城と、その後
荒木村重の名が歴史に残っているのは、この城でのできごとによる。
1578年秋、村重は信長に反旗を翻した。理由については諸説あり、市の資料は理由まで踏み込んでいない。分かっているのは結果である。
有岡城は信長軍に包囲された。そして10か月の籠城の末、村重は尼崎城へ逃れ、城は陥落した。この籠城のあいだ、村重の説得に赴いた黒田官兵衛が土牢に幽閉された話はよく知られている。
ここで注目したいのは、村重の逃亡先が尼崎だったことだ。伊丹と尼崎は猪名川でつながっている。当時の武将にとって、この二つの町はひと続きの行動圏だった。いまも伊丹市の東側には、最寄駅が塚口や武庫之荘(尼崎市)になる住宅地がある。市境より川と街道のほうが、人の動きをよく説明する。
落城の翌年、1580年(天正8年)に池田信輝の嫡子・之助が入城した。しかし有岡城が城として使われた時代は、ここでほぼ終わる。
城跡の発掘は1975年に始まり、400次を超える調査が行われた。1979年(昭和54年)12月に国の史跡に指定され、1988年5月に追加指定を受けている。駅前の一等地に城跡を残したというのは、それだけの価値が認められたということだ。
行基は、池だけをつくったのではない
伊丹市の歴史ページは、行基について「昆陽池と昆陽寺を造った」と記している。池と寺がセットになっている点が重要だ。
古代の大規模土木事業は、行政だけでは動かなかった。労働力を集め、食べさせ、まとめる仕組みが要る。行基がそれを可能にしたのは、彼が僧であり、その周囲に信者の集団があったからだと考えられている。寺は信仰の場であると同時に、事業の拠点でもあった。
そこに昆陽布施屋が加わる。旅人と労働者のための無料の宿泊・救護施設である。池を掘り、寺を建て、宿を開く。この三点セットが、伊丹の西の一帯に8世紀前半に出現した。
なぜこの場所だったのか。ひとつには、ここが都と西国を結ぶ街道の途上にあたるからだろう。人と物が通る場所に施設を置けば、それだけ多くの人を救える。そして通行が増えれば、その土地自体が豊かになる。行基の事業は、信仰であると同時にきわめて実際的なインフラ投資でもあった。
1300年後、同じ伊丹の地に空港ができ、年間何百万人もの旅客がここを通過する。人の流れが通る場所であるという性格を、この土地はずっと保ち続けている。
地名に残る、村だった頃の伊丹
伊丹市の町名を眺めると、江戸時代の村の名前がそのまま残っているものが多い。
伊丹郷町を構成した15か村のうち、昆陽口・植松・野田・外崎といった名は、いまも市内の町名や地区名に見つけられる。行政が変わっても、村の単位は消えていない。
「昆陽(こや)」は行基の池と寺の名であり、いまは昆陽・昆陽池・昆陽南・昆陽東・昆陽北といった町名として広がっている。8世紀の土木事業の名前が、21世紀の住所になっているということだ。
「口酒井(くちさかい)」は縄文・弥生の遺跡名として市が挙げる地名で、現在も猪名川沿いの町名として残る。「酒井」に酒の字が入っているのは偶然だろうが、酒の町としては出来すぎた符合ではある。
そして「鴻池」。清酒発祥の地とされる場所であり、日本有数の豪商の名字の由来でもある。ひとつの町名が、産業史と経済史の両方に足跡を残している。
もうひとつ、伊丹の地図を見ていて気づくことがある。市域の形が、他の阪神間の市と比べてかなり整っている。東は猪名川、西は武庫川に近く、南北に長い長方形に近い。周囲を尼崎市・西宮市・宝塚市・川西市、そして大阪府に囲まれているため、市域が大きく広がる余地がなかった。
この「広げられなかった」ことが、結果として伊丹の密度を生んだ。古代の池と、戦国の城と、江戸の酒蔵と、昭和の空港が、すべて同じ市域に収まっている。もし伊丹が周辺を合併して広い市になっていたら、これらは「市内の各地にある名所」に散っていただろう。狭いからこそ、歩いて回れる距離に千三百年が積み重なった。
城が消えたあと、町は酒で立ち上がった

城を失った伊丹は、まったく別の産業で立ち直る。酒である。
伊丹市公式の資料は、江戸時代の伊丹を酒造の町「伊丹郷町(いたみごうちょう)」として発展したと説明している。そして酒造の最盛期は文化・文政期(1804〜1830年)だとする。
この町の酒造がどれほど本格的だったかを示す建物が残っている。旧岡田家住宅である。市の資料によれば、棟札の銘文から建築年が延宝2年(1674年)と確認できる。平成4年(1992年)に酒蔵とともに国の重要文化財に指定された。
市の評価はこうだ。店舗は「全国的にも数少ない17世紀の町家」であり、酒蔵は「江戸時代に酒造で栄えた伊丹の酒蔵の例として、洗い場・釜屋・店舗とともに一連の構えを残している点で価値が高い」。
ここで大事なのは、店舗と酒蔵と洗い場と釜屋が「一連の構え」で残っているという点だ。酒をつくる場所と売る場所が同じ敷地にあり、その全体が保存されている。江戸時代の酒屋の商売の形が、そのまま建物として残っているということである。
市の資料は、伊丹の酒造の隆盛とともに俳諧の文化が栄えたことにも触れている。酒屋の主人が俳人でもあるというのは、当時の上方では珍しくない。金と教養が同じ町の同じ家に集まっていた。
なお、伊丹を「清酒発祥の地」と呼ぶ言い方は広く流布しているが、伊丹市の文化財ページはその表現を用いていない。本記事でも、市が記していることの範囲にとどめておく。
山中鹿介の息子が、清酒をつくった
伊丹の酒には、一人の人物の名前がついてまわる。
伊丹市公式のページはこう記す。「鴻池は清酒発祥の地」。そして山中新六幸元が慶長5年(1600年)、同地で濁り酒から清酒を造ることに成功した、と。
この山中新六の父が誰かというと、山中鹿介(やまなか しかのすけ)である。尼子氏の再興に生涯を捧げ、「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話で知られる戦国武将だ。市のページも鹿介を「戦国武将」であり新六の父であると記している。
滅びた大名家の再興に殉じた武将の息子が、酒屋になった。そしてその酒屋の子孫が、やがて大坂で両替商となり、江戸期を代表する豪商・鴻池家になっていく。戦国が終わり、武力ではなく商いで身を立てる時代が来たことを、これほど分かりやすく示す家系もない。
伊丹市域の鴻池という地名は、いまも残っている。阪急伊丹駅から東へ、猪名川に向かう途中の一帯である。日本の酒の歴史の起点とされる場所が、住宅地の町名として日常のなかにある。
町の持ち主は、京都の公家だった
江戸時代の伊丹郷町には、他の城下町にはない特徴があった。領主が大名ではなく、公家だったのである。
市立伊丹ミュージアムの資料によれば、寛文元年(1661年)に11か村が近衞家(このえけ)領となり、明治まで近衞家が領主だった。近衞家は五摂家の筆頭、つまり公家社会の頂点にある家である。正徳元年(1711年)には1000石余の加増もあった。
伊丹郷町を構成していたのは15か村。伊丹町(村)、大広寺村、北少路村、昆陽口村、北中少路村、南中少路村、円正寺村、外城村、高畑村、新野田村、古野田村、植松村、下市場村、上外崎村、外崎村。いまの伊丹市の町名に、そのまま残っているものが少なくない。
領主が公家であることは、町にとって何を意味したか。京都に住む領主は、日常の統治に細かく口を出さない。年貢さえ納まれば、町のことは町が決める。この距離感が、伊丹の商人たちに大きな裁量を与えたと考えられる。城下町のように武士が常駐して睨みをきかせる町とは、空気がまるで違ったはずだ。
酒屋が刀を差した町
その裁量の大きさを、これ以上なくはっきり示す記録がある。
元禄10年(1697年)、伊丹郷町の酒家年行事24家が「惣宿老(そうしゅくろう)」の称号を得て、帯刀を許された。
江戸時代において、刀を差すことは武士の特権である。それが町人に、しかも24家にまとめて認められた。この町では、酒をつくる家が事実上の支配層だったということだ。
もっとも、この地位は固定ではなかった。同じ資料によれば、明和年間(1764〜72年)の惣宿老は八尾家・小西家のわずか2家になっている。70年ほどの間に24家が2家に減った。酒造業の競争がいかに厳しかったかがうかがえる。
町のシンボルである猪名野神社には、酒造家などが奉納した石燈籠が98基並ぶ。文政10年(1827年)には春日・松尾・住吉の三社を相殿として建立し、明治2年(1869年)に猪名野神社と改名された。松尾は酒の神である。石燈籠の列は、この町で誰が力を持っていたかの記録そのものだ。
文化・文政期(1804〜1830年)が伊丹の酒造の最盛期とされるのは、この石燈籠の年代とも重なる。城を失った町が、百年かけて別の力を手に入れていた。
馬車鉄道から、市制施行まで
近代の伊丹は、交通の変化とともに動いた。
明治22年(1889年)、町村制の施行により伊丹町が成立する。明治24年には川辺馬車鉄道が開通した。文字どおり、レールの上を馬が客車を引く鉄道である。これがのちに阪鶴鉄道となり、現在のJR福知山線につながっていく。
大正9年(1920年)、阪急伊丹線が開業。塚口から伊丹へ、わずか数キロの支線である。この短い路線が、伊丹を大阪への通勤圏に組み込んだ。
昭和15年(1940年)、伊丹市が市制を施行する。当時の人口は約5万3千人だった。
そして昭和20年(1945年)の空襲。市の記録では死者28人、焼失95棟。近隣の尼崎(西長洲・杭瀬などが被災)や神戸と比べれば被害は限定的だったが、それでも町は傷ついた。
空港が来た日、そして「廃止都市宣言」

昭和33年(1958年)、大阪国際空港が開港した。伊丹市と豊中市にまたがる、日本を代表する空港である。
空港は伊丹に雇用と知名度をもたらした。昭和37年(1962年)には人口が10万人を突破する。市制施行から22年で倍増した計算だ。
だが、空港は同時に騒音をもたらした。ジェット機の時代に入ると、周辺住民の生活は深刻な影響を受ける。そして昭和48年(1973年)、伊丹市は「大阪国際空港廃止都市宣言」を行った。
自治体が、自らの市域にある国の重要インフラの廃止を求めて宣言を出す。これは日本の公害史の中でも際立ったできごとである。市に最も大きな存在感を与えていたものに対して、市が正面から異議を唱えた。
その後、騒音対策と補償が進み、空港と市の関係は少しずつ変化していった。現在、大阪国際空港は国内線の基幹空港として機能し続けている。宣言そのものは、いまも伊丹市の歴史の一項目として市の年表に残っている。
1995年と2005年、二つの記録
伊丹市の年表には、平成に入ってから二つの重い記録がある。
ひとつは平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災。市の記録によれば、死者23人、負傷者2,716人、建物被害8,894棟。神戸市や西宮市ほど報道されることは少なかったが、市域の規模を考えれば決して小さな被害ではない。
もうひとつは平成17年(2005年)のJR福知山線脱線事故である。事故現場は尼崎市内だが、犠牲者のうち18人が伊丹市民だった。市の年表はこの数字を記録している。
この路線は、明治24年の川辺馬車鉄道にさかのぼる。馬が引いた鉄道が、114年後にこの事故の舞台になった。市の歴史をたどっていると、こういう長い線でつながる出来事に何度も出会う。
「ことば蔵」と「ミュージアム」──21世紀の伊丹
21世紀に入ってからの伊丹市は、文化施設の整備に力を入れてきた。
平成22年(2010年)に市制70周年。平成24年(2012年)には「ことば蔵」が開館した。市立図書館の愛称で、酒蔵の街にちなんだ名前である。
令和2年(2020年)に市制80周年を迎え、新しい市民センターが整備された。そして令和4年(2022年)、市立伊丹ミュージアムが開館し、新市庁舎が完成した。市立伊丹ミュージアムは、美術館・博物館・工芸センターを統合した施設で、旧岡田家住宅・旧石橋家住宅と一体になっている。
17世紀の酒蔵の隣に、21世紀の美術館がある。これは伊丹という町の性格をよく表している。市域が狭いぶん、時代の違うものが物理的に隣り合うことになる。
19万5千人が、この面積に住んでいる
2025年国勢調査の人口速報によれば、伊丹市の人口は195,152人。2020年から2,986人・1.51%の減少である。
この数字は、阪神間のなかでは真ん中あたりに位置する。同じ調査で尼崎市は▲0.53%、西宮市は▲0.57%、川西市は▲1.72%、宝塚市は▲4.09%、三田市は▲3.77%。伊丹は大きく減ってもいないし、増えてもいない。
市制施行の昭和15年(1940年)に約5万3千人だった人口は、昭和37年(1962年)に10万人を超え、その後20万人近くまで伸びた。22年で倍増し、そこからさらに倍近くになった計算である。空港と鉄道と大阪への近さが、この増加を支えた。
ここで思い返しておきたいのは、この街が大きく市域を広げないままこの人口を受け入れてきたことだ。狭い土地に人が集まるということは、住宅が密になるということである。伊丹の住宅地の区画がおおむね整然としているのは、限られた面積のなかで計画的に開発を進める必要があったからだろう。
そして市の中心はいまも変わらない。JR伊丹駅と阪急伊丹駅の間、有岡城跡と酒蔵と商店街がある一帯である。荒木村重が惣構で囲んだ範囲と、いまの中心市街地は、かなりの部分で重なっている。450年前に「ここを守る」と決めた線が、いまも街の中心を規定している。
狭い市に、なぜこれだけ詰まっているのか
ここまで見てきたものを、もう一度並べてみる。
8世紀の溜池。名前の分からない奈良時代の寺。摂津の三分の一を握った武士。1574年に名前を変えた惣構の城。1674年の酒蔵。1891年の馬車鉄道。1958年の国際空港。1973年の廃止都市宣言。2022年のミュージアム。
この密度を可能にしたのは、おそらく地形である。伊丹台地は猪名川と武庫川に挟まれた高台で、洪水を受けにくい。だから古代から人が住み続けられた。一方で水は取りにくいから、行基が池を掘る必要があった。台地の縁は防御に適しているから、城が築かれた。そして水はけがよく平坦だから、20世紀には飛行場に選ばれた。
ひとつの地形条件が、時代ごとに違う意味を持ち続けている。池を掘るのに苦労した土地が、滑走路を敷くのには最適だった。伊丹の歴史を面白くしているのは、この読み替えの連続である。
いま伊丹の街を歩けば、JR伊丹駅の西に有岡城跡の石垣があり、そこから北へ数分で酒蔵とミュージアムがあり、西へ向かえば昆陽池があり、その上を旅客機が降りてくる。1300年分が、歩いて回れる距離に収まっている。
よくある質問
伊丹市の歴史で最も古い記録は何ですか?
伊丹市の資料では、縄文・弥生時代の遺跡が猪名川流域に集中しており、口酒井遺跡が代表的なものとして挙げられています。文献に残る人物としては、僧・行基(668〜749年)が8世紀前半に昆陽池を築いたことが最初期の記録です。行基は伊丹で灌漑用水池を5つ、溝を2本つくり、旅人のための施設である昆陽布施屋も開いたとされています。
有岡城と伊丹城は同じ城ですか?
同じ城です。伊丹氏が約300年にわたって維持していた伊丹城に、1574年11月に織田信長の武将・荒木村重が入城し、有岡城と改名して大改造を行いました。改造後の有岡城は東西800メートル・南北1,700メートルを堀と土塁で囲んだ惣構(総構)型の城郭で、本丸だけでなく侍町や町屋地区も城壁の内側に入れていました。1979年12月に国の史跡に指定されています。
荒木村重の籠城はどれくらい続いたのですか?
伊丹市の資料によれば、1578年秋に荒木村重が織田信長に反旗を翻し、有岡城は包囲されました。10か月の籠城の末に村重は尼崎城へ逃れ、城は陥落しています。翌1580年(天正8年)には池田信輝の嫡子・之助が入城しました。
伊丹の酒造はいつが最盛期だったのですか?
伊丹市の資料は、酒造の最盛期を文化・文政期(1804〜1830年)としています。江戸時代の伊丹は酒造の町「伊丹郷町」として発展し、俳諧の文化も栄えました。延宝2年(1674年)建築と棟札で確認できる旧岡田家住宅は、酒蔵とともに平成4年(1992年)に国の重要文化財に指定されています。
「大阪国際空港廃止都市宣言」とは何ですか?
昭和48年(1973年)に伊丹市が行った宣言で、市の年表に記録されています。昭和33年(1958年)に開港した大阪国際空港は伊丹市に雇用と知名度をもたらす一方、ジェット機時代に入って騒音問題が深刻化しました。市が自らの市域にある国の重要インフラの廃止を求めて宣言を出した例として知られています。その後は騒音対策と補償が進み、空港は現在も国内線の基幹空港として機能しています。
この記事で参照した資料
- 伊丹市「歴史」(市の紹介)
- 伊丹市「有岡城跡」(市内文化財・国指定)
- 伊丹市「旧岡田家住宅」(市内文化財・国指定)
- 伊丹市「昆陽池」(市内文化財)
- 兵庫県「令和7年国勢調査 人口速報の概要」
※本記事は上記の公表資料に基づいて構成しています。公式の裏付けが確認できなかった通説や伝承については、あえて記載していません。
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