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川西市

川西の歴史をたどる――武士という職業が、この盆地から始まった1050年

2026.08.27
川西市の風景

「武士」という職業が、いつどこで始まったのかを一点に定めることはできない。だが、その系譜の中心にある一族がどこから出たかなら、はっきりしている。兵庫県川西市の多田盆地である。

川西市は自らを「清和源氏発祥の地」と称している。源頼朝も、足利尊氏も、武田信玄も、徳川家康も、系図の上では清和源氏の流れをくむ。日本の武家政権の系譜が、この盆地から出発している。

いま川西市は、大阪のベッドタウンとして知られる住宅都市である。人口約15万人。市域は南北に細長く、能勢電鉄が北へ延びる。その日常の風景の下に、二千年分の層が重なっている。この記事では、市の公式資料をたどってその層をめくっていく。

二万年前から、人はここにいた

川西市の加茂遺跡から出土した弥生土器
加茂遺跡から出土した弥生土器。約20ヘクタールに及ぶ弥生時代中期の大規模集落跡 / 写真:Saigen Jiro(Public domain, Wikimedia Commons)

川西市には加茂遺跡という国史跡がある。市教育委員会の保存活用計画によれば、その規模は相当なものだ。

約20ヘクタールの、弥生時代中期(紀元前3〜紀元前1世紀)を中心とした大規模集落。居住区・墓地・環濠から形成され、環濠で囲まれた中心域があり、その外側に南北の居住区が広がり、西部には方形周溝墓群がある。

さらに驚くのは、この場所で人の営みが確認できる時間の幅である。市の資料は「旧石器時代から奈良・平安時代(約2万年前〜10世紀)」と記す。二万年にわたって、人が住み続けた場所ということだ。

発見の経緯も面白い。1911年、「栄根銅鐸」が偶然出土した。1915年には笠井新也が多量の弥生土器・石器の散布を初めて発見。1936年には宮川雄逸が私設資料館(宮川石器館)を開館している。地元の人が、自分の土地から出てくるものの重要さに気づき、自費で資料館まで開いた。

国史跡に指定されたのは平成12年(2000年)7月31日で、当初は約2.3ヘクタール。その後平成23年(2011年)と平成27年(2015年)に追加指定され、現在は約3.15ヘクタールになっている。発掘調査はおよそ280次を数える。

なぜここに二万年も人が住み続けたのか。加茂遺跡は猪名川に面した台地の上にある。水が近く、しかも水に浸からない。川西市の歴史全体を通じて、この条件が人の居場所を決めてきた。

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天禄元年、一人の武士が盆地に入った

多田院時代の名残をとどめる多田神社の南大門
多田神社の南大門。天禄元年(970年)に源満仲が建立した多田院がその前身にあたる / 写真:Saigen Jiro(CC0, Wikimedia Commons)

天禄元年(970年)、源満仲(みなもとの みつなか)が多田院を建立した。川西市公式の多田神社のページが記す年号である。

源満仲は清和天皇の子孫にあたる。皇族の血を引きながら、臣籍に降りて源姓を名乗った一族の一人だ。彼が摂津国多田の地に本拠を置いたことから、その子孫は多田源氏と呼ばれるようになる。

市の説明はこう続く。「その後、全国で活躍した源氏の武士は満仲の子孫である」。この一文は、日本史の相当な部分を要約している。

なぜ満仲はこの盆地を選んだのか。多田盆地は猪名川の上流域にあり、山に囲まれている。都(京都)からは近いが、都の目は届きにくい。武力を養い、私的な軍事集団をつくるには理想的な立地だった。しかも山からは鉄が採れたとも言われる。

この時代、朝廷の中枢にいる貴族たちは武力を必要としていた。だが自ら武器を取ることはしない。「必要だが、自分ではやらない」ものを引き受けた人々が、やがて武士になった。満仲が多田で始めたのは、そういう請負業だった。

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なぜ盆地だったのか

源満仲が多田を選んだ理由を、地形から考えてみたい。

多田盆地は猪名川の中流域にある。周囲を低い山に囲まれ、内側にまとまった平地がある。この形は、軍事的にきわめて有利だ。入口が限られているから守りやすく、内側では兵を養う米がつくれる。

そして都からの距離が絶妙である。京都まで直線でおよそ40キロ。急げば一日で行ける。だが日常的に見張られる距離ではない。朝廷から仕事を請け負うには近く、私的な軍事力を蓄えるには遠い。

もうひとつ、猪名川流域は古くから木材の産地であり、山からは鉱物も得られたと伝えられる。武器をつくるにも、館を建てるにも、必要なものが手元にあった。

興味深いのは、二万年前の加茂遺跡の住人も、十世紀の源満仲も、二十世紀のニュータウン開発者も、結局は同じ猪名川の谷筋を選んでいることだ。求めるものは狩猟の場から軍事拠点、そして住宅地へと変わったのに、選ばれる場所は変わらない。地形は、人間の都合よりずっと粘り強い。

多田源氏は、どこへ行ったのか

満仲がこの盆地で始めたものは、その後どうなったか。

川西市の公式ページは「その後、全国で活躍した源氏の武士は満仲の子孫である」と簡潔に記す。この一文の中身を、多田神社の祭神の並びからたどってみたい。

祀られているのは満仲・頼光・頼信・頼義・義家の五代である。

頼光は満仲の長男で、多田の本拠を継いだ。彼の系統は摂津源氏と呼ばれ、都で朝廷に仕える路線を歩む。酒呑童子退治の物語で有名になったのはこの人である。

いっぽう頼信は満仲の三男で、河内国(現在の大阪府南東部)に拠点を移した。こちらは河内源氏と呼ばれる。そして頼義、義家と続くこの系統が、東国の武士団を組織していく。

前九年の役、後三年の役。東北での戦いを通じて、義家は関東の武士たちの信望を集めた。「源氏の御曹司に従う」という価値観が、この時期に東国で形成された。

そして百年後、この蓄積の上に源頼朝が立つ。鎌倉幕府が成立し、武家政権の時代が始まる。その後の足利氏も、徳川氏も、系図の上では清和源氏を称した。

つまり多田盆地で起きたのは、一族の分岐である。都に残る系統と、東国へ出ていく系統。前者は洗練され、後者は拡大した。そして東国へ出ていったほうが、日本の政治体制を七百年つくり変えた。

多田神社に五代がまとめて祀られているのは、この分岐する前の共通の祖先を確認する場所だからだろう。全国に散った源氏の武士にとって、多田は「もとはここから出た」という一点を指す場所だった。

五代の当主が、同じ社に祀られている

川西市の多田神社の随神門
多田神社の随神門。現在の社殿は江戸時代に徳川家光によって再建された / 写真:Saigen Jiro(CC0, Wikimedia Commons)

多田神社の祭神を見ると、この一族の系譜がそのまま並んでいる。市の資料によれば、祀られているのは源満仲・頼光・頼信・頼義・義家の五代である。

源頼光は満仲の長男。酒呑童子退治の伝説で知られ、摂津源氏の祖となる。源頼信は満仲の三男で、河内源氏の祖。源頼義はその子で、前九年の役を戦った。源義家は「八幡太郎」と呼ばれ、後三年の役で東国武士の信望を集めた。

この義家の子孫から、源頼朝が出る。鎌倉幕府は、多田の盆地から五代さかのぼった先にある。

多田院は、時代とともに武家政権の保護を受け続けた。現在の社殿は江戸時代に徳川家光によって再建されたものだと市は記す。徳川家もまた清和源氏を称した家である。将軍が、自らの系譜の始祖を祀る社を建て直したということになる。

境内は国の史跡に指定され、本殿・拝殿をはじめ、国と県の重要文化財に指定された建造物が複数ある。境内には珍しい椿が多く、赤・ピンク・白の花を咲かせる。

「多田院」という寺号が「多田神社」に変わったのは明治の神仏分離による。だが南大門をくぐるときの構えは、いまも寺のそれに近い。千年前に武士の一族が建てた寺が、名前を変えながら同じ場所に残っている。

清和源氏という「ブランド」

ここで少し引いて考えてみたい。なぜ後世の武家は、こぞって清和源氏を名乗ったのか。

足利氏も、新田氏も、武田氏も、佐竹氏も、そして徳川氏も、系図の上では清和源氏である。これほど多くの家がひとつの系譜に連なると主張するのは、それ自体が異常なことだ。

理由は単純である。武家の棟梁であることの正統性が、源氏の血筋によって説明されていたからだ。源頼朝が征夷大将軍になり、足利尊氏がそれに続いた。以後、「将軍になるには源氏でなければならない」という了解が生まれる。徳川家康が源氏を称したのも、この文脈の中にある。

つまり清和源氏という系譜は、途中から実際の血縁というより、権力の正統性を示す資格として機能するようになった。系図が売買されたり、後からつくられたりすることも珍しくなかった。

その資格の起点にあるのが、多田盆地である。川西市が「清和源氏発祥の地」を掲げるとき、それは血筋の話であると同時に、日本の武家政治の正統性がどこから語られてきたかという話でもある。

もちろん、満仲本人にそんな自覚はなかっただろう。彼はただ、都から適度に離れた守りやすい盆地に館を構え、武力を蓄えただけである。七百年続く体制の起点になるとは、本人がいちばん思っていなかったはずだ。

駅名になった「一の鳥居」

川西能勢口から北へ延びる能勢電鉄
能勢電鉄。川西能勢口から多田・平野・山下・日生中央方面へ延びる / 写真:HK-02(CC BY-SA 4.0, Wikimedia Commons)

川西市の地図を見ていると、多田源氏の痕跡が地名や駅名として点在していることに気づく。

能勢電鉄には「一の鳥居」という駅がある。多田神社(多田院)へ向かう参道の入口に立つ鳥居に由来する名前だ。参道の目印が、そのまま鉄道の駅名になっている。

「多田」という地名は、多田駅、多田院、多田神社として市内に生きている。満仲がここに本拠を置いてから1050年以上、この地名は使われ続けている。

能勢電鉄そのものも、この地形を素直になぞって敷かれている。川西能勢口から北へ、猪名川の谷を遡上するように、多田・鼓滝・鶯の森・平野・一の鳥居・畦野・山下と進む。川に沿って人が住み、その並びに沿って線路が引かれた。二万年前の加茂遺跡の住人が選んだ場所と、いまの鉄道路線は、同じ川の論理に従っている。

市になったのは、意外に遅かった

これだけの歴史を持ちながら、川西市が市として成立したのは戦後である。

市の「川西市の歩み」によれば、昭和29年(1954年)8月、川西町・多田村・東谷村が合併して市制施行。当時の人口は33,741人だった。昭和32年には最初の市庁舎が落成している。

3万3千人という数字は、いまの人口(約15万人)の4分の1以下である。川西が住宅都市になるのは、市になってからのことだった。

高度成長期に入ると、大阪への通勤圏として山が切り開かれていく。清和台、丸山台、けやき坂、大和団地。能勢電鉄の沿線に、次々とニュータウンが生まれた。

ここで川西市が全国に先駆けてやったことがある。昭和42年(1967年)、「住宅地造成事業に関する指導要綱」を全国で初めて施行したのである。

これは開発業者に対して、道路や公園、学校用地などの整備を求める行政指導の仕組みだ。法律で義務づけられていないことを、要綱という形で自治体が求める。宅地開発指導要綱と呼ばれるこの手法は、その後全国の自治体に広がった。

なぜ川西が最初だったのか。それだけ開発の圧力が強く、しかも山を削る造成が環境と生活基盤に与える影響が大きかったからだろう。千年前に武士が生まれた盆地は、二十世紀には都市計画の実験場になった。

「キセラ川西」という名前の意味

21世紀の川西市が力を入れているのが、川西能勢口駅の北側にあたる中央北地区の再開発である。

市の資料によれば、平成25年(2013年)にこの地区の愛称が「キセラ川西」に決定した。「キセラ」は「来せら」、つまり「来てください」という意味を込めた造語とされる。

この地区には、平成29年(2017年)にキセラ川西せせらぎ公園が全面オープンし、平成30年(2018年)にはキセラ川西プラザが開館した。市民ホールや図書館機能を含む複合施設である。

もとは工場跡地を含む一帯だった。使われなくなった産業用地を、市民のための場所に転換する。これは全国の都市が取り組んでいることだが、川西の場合、駅のすぐそばというきわめて条件のよい土地でそれをやった。

交通インフラも整備が進んだ。平成8年(1996年)に能勢電鉄の高架化、平成9年(1997年)には川西能勢口駅の連続立体交差事業が実施されている。川西能勢口は阪急宝塚線と能勢電鉄が乗り換える結節点で、この駅の使いやすさが市全体の利便性を左右する。

さらに平成29〜30年(2017〜18年)には新名神高速道路が開通した。市の資料はこれを広域交通ネットワークの整備として記録している。

三万三千人が、十五万人になるまで

市制施行時(昭和29年)の川西市の人口は33,741人だった。それが現在は約15万人。70年で4.4倍になった計算である。

この増加を可能にしたのは、能勢電鉄と阪急宝塚線の存在だった。川西能勢口で乗り換えれば、大阪梅田まで20分足らず。大阪に通える距離に、まだ山があった。高度成長期の関西で、これは決定的な条件である。

そして山が削られた。清和台、丸山台、けやき坂、大和団地。能勢電鉄の駅から尾根へ向かって、造成地が広がっていった。

ここで昭和42年(1967年)の「住宅地造成事業に関する指導要綱」がきいてくる。全国初のこの要綱は、開発のスピードに行政が追いつくための道具だった。放っておけば、道も公園も学校もないまま家だけが建つ。それを防ぐために、市は法律にない権限を要綱という形でつくった。

結果として、川西のニュータウンは比較的整った街並みになった。区画があり、緑地があり、小学校が歩ける距離にある。この「当たり前」は、当時は当たり前ではなかった。

そして半世紀。造成から時間が経ち、当時の入居世代が高齢化している。清和台西、丸山台、清和台東、けやき坂。これらの町名がいま市内の不動産取引で上位に並ぶのは、世代交代が進んでいることの表れである。

川西の地名を読む

川西市の地名には、この土地の履歴が素直に出ている。

「多田」は源満仲の本拠地の名であり、千年以上使われ続けている地名だ。「一の鳥居」は多田神社の参道の入口。「絹延橋」や「鼓滝」には、猪名川の流れにまつわる字が入る。「鶯の森」は、そのまま山あいの風景である。

いっぽう、戦後に生まれた地名は性格がまったく違う。清和台、けやき坂、丸山台、大和団地。「台」「坂」「丘」といった造成地を示す語と、明るい印象の語の組み合わせでできている。売るために名づけられた地名だと言ってもよい。

面白いのは「清和台」である。清和源氏の「清和」から取ったとすれば、新興住宅地の名前に、千年前の一族の名が引き継がれたことになる。市が「清和源氏発祥の地」を掲げていることを考えると、この命名は偶然ではないだろう。

そして市の名前そのもの、「川西」。猪名川の西側という、きわめて即物的な地名である。多田でも源氏でもなく、川との位置関係で名乗った。市名になったのは、いちばん古くていちばん単純な事実だった。

南北に細長い市の、二つの顔

川西市を理解するうえで欠かせないのが、市域の形である。

川西市は南北に細長い。南端は阪急川西能勢口とJR川西池田がある市街地で、大阪梅田まで20分足らず。そこから北へ、猪名川の谷に沿って市域が伸び、山下・日生中央のあたりまで続く。

この形が、市内に二つの顔を生んでいる。南は都市、北は郊外。いや、それどころか多田盆地から北は、いまも山と川の風景が濃い。

能勢電鉄の駅名を並べてみると、その移り変わりがよく分かる。川西能勢口、絹延橋、滝山、鶯の森、鼓滝、多田、平野、一の鳥居、畦野、山下。「滝」「森」「鼓滝」「鳥居」──駅名がだんだん自然と信仰の言葉になっていく。

この南北差は、いまも市政の課題であり続けている。南の市街地には人が集まり、北のニュータウンでは高齢化が進む。ただしこれは川西だけの現象ではなく、鉄道が山に向かって伸びた郊外都市に共通する構造である。

2025年国勢調査の人口速報では、川西市は149,698人で、2020年から2,623人・1.72%の減少。同じ調査で宝塚市は▲4.09%、三田市は▲3.77%だから、川西の減少は相対的にはゆるやかである。

三つの村が、ひとつの市になった

昭和29年(1954年)8月に合併したのは、川西町・多田村・東谷村の三つである。この三つがどこにあったかを地図の上に置くと、いまの市の姿がよく分かる。

川西町は南端、猪名川の西岸で池田(大阪府)と向き合う一帯。市街地であり、鉄道の結節点である。多田村はその北、多田神社を中心とする盆地。東谷村はさらに北の山あいで、いまの清和台や大和団地のあたりを含む。

つまり市街地・歴史の中心・山地という、性格のまったく違う三つが合わさって川西市になった。人口3万3千人のうち、大半は南の川西町に住んでいたはずだ。

この合併がなければ、後のニュータウン開発はまったく別の形になっていただろう。南の市街地が、北の山を開発する主体になれたのは、ひとつの自治体になっていたからである。

そして70年後、その北の山に住む人が高齢化し、南の市街地では駅前の再開発が進んでいる。三つの村の性格の違いは、いまも市政の課題として残っている。

猪名川の東は、もう大阪府だった

川西市の位置を語るとき、外せないのが県境である。

市の東を流れる猪名川。その対岸はもう大阪府池田市である。川西能勢口の駅から川を渡れば、数分で他府県に入る。

この距離感は、川西という街の性格を決定的にしている。兵庫県でありながら、生活圏は大阪。通勤先も、買い物先も、大阪を向いていることが多い。市名の「川西」が猪名川の西という意味であることを思えば、この街はもともと川を基準に自分を定義してきたことになる。

歴史をさかのぼれば、この一帯はまとめて摂津国だった。摂津は現在の大阪府北中部と兵庫県南東部にまたがる国で、猪名川は国の中を流れる川であって、境界ではなかった。源満仲が多田に本拠を置いたとき、彼にとって川の東も西も同じ摂津である。

県境が引かれたのは明治のことだ。千年以上ひと続きだった地域が、行政上は二つに分かれた。それでも人の動きは変わらなかった。いま川西市民の多くが大阪へ通っているのは、明治の県境より千年古い地理に従っているだけとも言える。

一の鳥居から、南大門まで

最後に、歩いてみることを勧めたい。

能勢電鉄の一の鳥居駅で降りる。駅名の由来である鳥居は、多田神社へ向かう参道の入口に立っている。そこから神社までは、歩いて15分ほどの距離だ。

参道は住宅地の中を抜けていく。特別な景観があるわけではない。ふつうの家が並び、ふつうの車が通る。ところがその道の先に、千年前の武士の一族を祀る社の南大門が現れる。

この落差が、川西という街をよく表している。歴史が特別扱いされていない。加茂遺跡も住宅地の中にあり、多田神社も生活道路の先にある。観光地として切り離されていないぶん、この土地に千年前から人が住み続けているという事実が、かえって生々しく感じられる。

猪名川の谷に人が住み始めてから約二万年。武士がここから出てから約千五十年。市になってから七十年。そのすべてが、いまも同じ谷筋の上に重なっている。

盆地が生んだもの、盆地が残したもの

川西市の歴史を通してみると、この土地が繰り返し同じことをしてきたのが分かる。

猪名川という川があり、その両側に台地と盆地がある。二万年前の人はそこに住み、弥生時代には20ヘクタールの集落をつくった。十世紀には源満仲が本拠を構え、そこから武家の系譜が伸びた。二十世紀には同じ谷筋に鉄道が敷かれ、山が削られて住宅地になった。

変わったのは、この土地に何を求めるかである。食糧、防御、木材と鉄、そして住まい。求めるものが変わるたびに、同じ谷が違う顔を見せてきた。

そして、そのすべてが残っている。加茂遺跡は国史跡として保存され、多田神社は千年の社殿を保ち、能勢電鉄はいまも走り、キセラ川西には新しい公園ができた。ひとつの層が次の層に上書きされるのではなく、隣に並んで残っている。市域が南北に長いことが、結果としてそれを可能にした。

川西能勢口の駅から北へ電車で15分。多田駅で降りて猪名川を渡ると、南大門が見えてくる。そこから日本の武士の歴史が始まったという事実は、いまも境内の静けさのなかに置かれたままである。

よくある質問

川西市が「清和源氏発祥の地」と呼ばれるのはなぜですか?

清和天皇の子孫にあたる源満仲が多田盆地に本拠を置き、天禄元年(970年)に多田神社の前身である多田院を建立したためです。川西市の公式ページは「その後、全国で活躍した源氏の武士は満仲の子孫である」と説明しています。多田神社には源満仲・頼光・頼信・頼義・義家の五代が祀られています。

多田神社はいつからあるのですか?

川西市の資料によれば、天禄元年(970年)に源満仲が多田神社の前身である多田院を建立しました。現在の社殿は江戸時代に徳川将軍・家光によって再建されたものです。境内は国の史跡に指定され、本殿・拝殿をはじめ国および県の重要文化財に指定された建造物があります。

加茂遺跡とはどのような遺跡ですか?

川西市教育委員会の保存活用計画によれば、約20ヘクタールの規模をもつ弥生時代中期(紀元前3〜紀元前1世紀)を中心とした大規模集落跡です。居住区・墓地・環濠から構成され、旧石器時代から奈良・平安時代(約2万年前〜10世紀)にわたる痕跡が確認されています。平成12年(2000年)7月31日に国史跡に指定され、その後の追加指定を経て現在は約3.15ヘクタールです。

川西市はいつ市になったのですか?

昭和29年(1954年)8月です。川西町・多田村・東谷村が合併して市制を施行しました。当時の人口は33,741人で、現在の約15万人の4分の1以下でした。昭和32年には最初の市庁舎が落成しています。

「宅地開発指導要綱」が川西発祥というのは本当ですか?

川西市の資料には、昭和42年(1967年)に「全国初の住宅地造成事業に関する指導要綱」を施行したと記されています。開発業者に道路や公園などの整備を求める行政指導の仕組みで、その後同種の要綱が全国の自治体に広がりました。高度成長期に山を削る宅地造成の圧力が強かったことが背景にあります。

この記事で参照した資料

  • 川西市「清和源氏発祥の地 川西」
  • 川西市「多田神社 清和源氏ゆかりの社寺」
  • 川西市「川西市の歩み」
  • 川西市教育委員会「史跡加茂遺跡 保存活用計画書 概要版」(平成28年3月)
  • 兵庫県「令和7年国勢調査 人口速報の概要」

※本記事は上記の公表資料に基づいて構成しています。公式の裏付けが確認できなかった通説や伝承については、あえて記載していません。

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