灘区の歴史をたどる――酒蔵と山と海が作った街

灘区で暮らしていると、当たり前になって気づかない風景があります。南北にまっすぐ下る坂道。東西に並行して走る3本の鉄道。浜側に点在する酒蔵の白壁。山の上の団地から見下ろす大阪湾。
これらはすべて、この街がたどってきた歴史の痕跡です。今回は、灘区がどうやって今の姿になったのかを、時代を追ってたどってみます。長く住んでいる方でも「へえ」と思う話がきっとあるはずです。
「灘区」が生まれたのは1931年――それまでは3つの村だった
灘区の誕生は1931年(昭和6年)9月。神戸市の区制施行によって生まれました。
意外に思われるかもしれませんが、そのわずか2年前まで、この地域は神戸市ではありませんでした。六甲山の南麓には六甲村(現在の区の東部)・西灘村・西郷町という3つの町村があり、1929年(昭和4年)4月に神戸市へ編入されて、いまの灘区の骨格ができました。明治の町村制の時代には六甲村・都賀野村・都賀浜村と呼ばれていた土地です。
区名の「灘」は、もともと大阪湾北岸の海の呼び名に由来するとされます。神戸市の公式資料では「酒どころ『灘の生一本』にちなむ」と紹介されつつも、「ナダの名称がいつごろ、どういう意味で使われてきたのか、未だ分からない」と書かれています。区の名前の正確な起源が実は分かっていない、というのは面白いところです。
ちなみに灘区の地形は、六甲山地が作った複合扇状地。西郷川・都賀川・石屋川という3本の川が南北に流れ、山から海までの距離が短いぶん、川はどれも急流です。この「急流」が、次の酒の話につながります。
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日本一の酒どころ「灘五郷」――灘区は「西郷」の町

日本酒の生産量日本一を誇る灘五郷。西宮市の「今津郷・西宮郷」、東灘区の「魚崎郷・御影郷」、そして灘区の「西郷(にしごう)」の5つを指します。
灘区の西郷にあたるのは、いまの新在家・大石のあたり。六甲山系の急流が水車を回して精米し、良質な水と、江戸へ酒を運ぶ樽廻船の港に恵まれたこの浜側一帯で、江戸時代から酒造りが栄えました。いまも「沢の鶴」が大石で操業を続けており、資料館では昔ながらの酒造りの道具を見ることができます。
ここで、地元でもよく誤解されている話をひとつ。日本一の進学校として知られる灘中学校・灘高等学校は、灘区にはありません。 所在地は東灘区の魚崎です。1927年(昭和2年)、灘五郷の酒造家である嘉納家(菊正宗・白鶴)と山邑家(櫻正宗)の篤志によって創立された学校で、校名の「灘」は区名ではなく「灘五郷」の灘。つまり灘区と灘校は、どちらも「酒どころの灘」から名前をもらった、いわば兄弟のような関係です。
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灘区には東西に3本の鉄道が走っています。開業した順に並べると、街が発展していった順番がそのまま見えてきます。
まず1905年(明治38年)、阪神電車が開業します。市街地化が最初に進んだのは海側でした。西灘・大石・新在家といった浜の町が、酒蔵と工場とともににぎわっていきます。
次が1920年(大正9年)、阪急神戸線。今度は山手です。六甲駅を中心に、郊外住宅地としての開発が始まります。
最後が1934年(昭和9年)、国鉄(現JR)の六甲道駅。浜と山手のちょうど中間に駅ができ、以後、六甲道は灘区の生活の中心になっていきました。
そして1935年(昭和10年)、神戸大学の前身にあたる神戸商業大学が六甲台に移転してきます。1902年創立の神戸高等商業学校を源流とする学校で、六甲台の新校舎はこの年の10月に完成しました。これを機に山手は「文教地区」としての性格を強め、灘区の「学生と教育の街」というイメージがここで確立します。
同じころ、浜と山の中間では別の名物が育っていました。水道筋商店街です。名前の由来は文字どおり「水道の筋」。大正時代、千苅貯水池から神戸市街へ水を送る水道管が敷設され、その管の上にできた道に市場や商店が集まり始めたのです。1958年(昭和33年)にはアーケードが完成。いまも8つの商店街と4つの市場、約500の店が連なる神戸有数の商業地で、約450mのアーケードは神戸でも有数の長さです。
山を削って、海へ運ぶ――地形を変えた高度成長期

昭和40年代、灘区では地形そのものが変わる大事業がありました。鶴甲(つるかぶと)の造成です。
もともと標高327mあった鶴甲山を削って宅地にし、削った土砂は高羽線の地下に設けたベルトコンベヤーで浜まで運び、灘浜東町などの海面埋め立てに使われました。造成の完了は1968年(昭和43年)。「山、海へ行く」と呼ばれた神戸市の都市経営の、灘区における代表例です。山の上には鶴甲の住宅地が生まれ、海側には港湾と工場の用地が広がりました。
山を削った土が、そのまま同じ区の海岸線になっている――灘区の南北の風景は、実はワンセットで作られたものなのです。
震災と「74日」の復旧――六甲道はこうして生まれ変わった
1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災。 灘区は激震地となり、JR六甲道駅は高架ごと崩落しました。
当初「復旧には最低2年」と言われた六甲道駅ですが、崩れた高架をジャッキで持ち上げて元の位置に戻すという前例の少ない工法が採られ、わずか74日後の4月1日に復旧。JR神戸線全線再開の最後のピースとなりました。この復旧劇は後にテレビドラマの題材にもなっています。
駅の南側では、六甲道駅南地区震災復興第二種市街地再開発事業が行われました。倒壊・焼失した市街地を、防災公園(六甲道南公園)を核に住宅と商業が一体となった街として再建する事業で、「ウェルブ六甲道」の各街区が順次完成。約10年をかけて、六甲道駅南は灘区でもっとも計画的に作られた街並みに生まれ変わりました。いま六甲道の駅前がきれいに整っているのは、この震災復興事業の結果です。
歴史はいまも動いている――摩耶駅と王子公園
灘区の歴史は過去の話ではありません。この10年、そしてこれからの10年も、街は変わり続けています。
2016年(平成28年)、JR摩耶駅が開業しました。 灘駅と六甲道駅の間にできた新駅で、周辺には開業に合わせて新しいマンションが集中的に建ちました。かつて貨物駅(東灘信号場)だった場所に旅客駅ができたことで、灘区の東西の移動はぐっと便利になり、駅周辺の街並みはこの10年でがらりと変わりました。
そして次に大きく変わるのは王子公園です。神戸市の再整備計画に基づき、関西学院大学が約3.5万㎡の敷地に新キャンパスを2029~2031年ごろに開設する予定で、王子動物園の再整備も計画されています。1951年開園の王子動物園は長く灘区のシンボルでしたが、そこに数千人規模の大学生が通うキャンパスが加わることになります。神戸商業大学の六甲台移転が山手を文教地区に変えたように、90年の時を経て、王子公園周辺でも「大学が街を変える」歴史が繰り返されようとしています。
おわりに――坂道の上にも、浜の路地にも、理由がある

こうして振り返ると、灘区という街は、酒蔵の浜(江戸~明治)→ 鉄道と大学の山手(大正~昭和戦前)→ 造成と埋立(高度成長期)→ 震災復興(平成)→ 新駅と大学誘致(現在)と、時代ごとに主役を変えながら積み重なってきた街だと分かります。
万葉集に詠まれた敏馬(みぬめ)の浦(いまの岩屋のあたり)の時代から数えれば、1300年以上も人が住み、歌に詠まれてきた土地です。いま自分が住んでいる場所が、どの時代に・どんな経緯でできた街なのかを知ると、毎日の坂道や商店街の風景が少し違って見えてくるのではないでしょうか。
私たちは灘区の不動産に携わる会社として、こうした街の成り立ちを知っておくことを大切にしています。またこのブログでは、灘区の暮らしにまつわる話を少しずつ書いていく予定です。
関連記事:【2026年版】灘区のマンション売却相場はいくら?駅別データと高く売るコツ――本記事で紹介した街の成り立ちが、今の相場にどう表れているかをデータでまとめています。
※本記事の歴史的事実は、神戸市公式資料、灘五郷酒造組合、神戸大学・灘中学校灘高等学校の公式沿革、神戸新聞等の公開資料に基づいています。
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