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三田市

三田の歴史をたどる――海を失った水軍の一族と、日本一人が増えた街の1300年

2026.08.27
三田市の風景

1987年から1996年まで、10年連続で人口増加率日本一だった市がある。兵庫県三田市である。

市制施行時(1958年)の人口は32,673人。それが1996年には10万人を超えた。40年足らずで3倍以上になった計算だ。

そして2025年国勢調査の人口速報では105,124人、2020年比▲3.77%。かつて日本一増えた街が、いま兵庫県内で有数の減り方をしている。

この落差だけを見れば、ニュータウンの盛衰という、よくある話に見えるかもしれない。だが三田の歴史をさかのぼると、そう単純ではないことが分かってくる。この街には、8世紀からの層がある。

「三田」という地名は、寺の言葉から来ている

まず地名の由来から始めたい。三田市公式の金心寺(こんしんじ)のページに、その答えがある。

金心寺は8世紀の創建とされる寺で、本尊は木造弥勒菩薩坐像。この本尊の胎内から銘文が発見されたという。そこにはこう書かれていた。

「松山庄と言うが、これを金心寺三福田により三田と改める」

もともとこの地は松山庄と呼ばれていた。それを金心寺の「三福田(さんぷくでん)」にちなんで「三田」と改めた、というのである。

三福田とは仏教の言葉で、供養することで福が得られる三つの対象を指す。つまり「三田」という地名は、田んぼの数でも地形でもなく、仏教思想から来ている。これは全国的にも珍しい部類の由来だろう。

金心寺には木造弥勒菩薩坐像、木造不動明王立像、絹本著色十一面観音画像という三件の国指定重要文化財があり、礎石が市指定重要文化財になっている。三田という名前の起点が、いまも寺として残っている。

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「三福田」とは何のことか

地名の由来になった「三福田」という言葉を、もう少し掘っておきたい。

福田(ふくでん)とは仏教の言葉で、種をまけば実りが返ってくる田のように、供養すれば福が返ってくる対象を指す。三福田は、その対象を三つに分けた考え方である。

分類には諸説あるが、おおむね敬うべき対象(仏・法・僧)、恩のある対象(父母や師)、憐れむべき対象(病人や貧しい人)という三つで語られる。信仰の対象、恩人、そして助けを必要とする人。この三方向に施しをすることが、福を生むとされた。

興味深いのは、この考え方が「田」という農業の比喩でできていることだ。種をまき、育て、実りを得る。仏教の抽象的な教えを、農村の人々に伝えるための言い換えである。

そして、その比喩から生まれた地名が、実際に田んぼの広がる盆地の名前になった。比喩が土地の名前に戻ってきたということになる。金心寺の僧がこの名を選んだとき、そこにどれだけの意図があったかは分からない。だが千三百年後、この地名はまだ使われている。

ちなみに東京の三田(みた)や、全国各地にある三田という地名の多くは、田の数や神田(みた・神に捧げる田)に由来するとされる。仏教の三福田から来ているとされる三田は、全国でも珍しい。読みも「さんだ」であって「みた」ではない。

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市になる前の、あわただしい三年間

三田市が市になるまでの経緯は、市の概要ページに簡潔に記されている。読むとかなりあわただしい。

昭和31年(1956年)に相野町が成立。その後三田町が成立し、昭和32年(1957年)に三田町が相野町を編入。そして昭和33年(1958年)7月に市制施行。

三年のあいだに、町ができ、隣の町を吸収し、市になっている。当時の人口は32,673人。市制施行の要件を満たすために、周辺の町村をまとめる必要があったのだろう。

この経緯は、いまの三田市域の広さ(210.32平方キロメートル)を説明している。もともと三田町だけでは、市になれる規模ではなかった。盆地の中心にある城下町が、周囲の農村部を合わせることで市になった。

結果として、三田市は「中心市街地+広大な農村部」という構造を持つことになった。この構造が、二十年後にニュータウンを受け入れる余地を生む。市域に開発できる土地が大量に残っていたからこそ、1980年代の大規模開発が可能だった。もし三田が旧市街だけの狭い市だったら、日本一人口が増えることもなかった。

海の大名が、山の国にやってきた

三田藩十五代当主・九鬼隆範が自ら設計した擬洋風建築の旧九鬼家住宅
旧九鬼家住宅。三田藩の九鬼隆範が自ら設計した擬洋風建築 / 写真:投稿者が撮影(Public domain, Wikimedia Commons)

江戸時代の三田を治めたのは九鬼(くき)家である。この一族の出自が、三田の歴史のなかでいちばん意外な部分かもしれない。

三田市の資料は、九鬼家を「勢力を誇った水軍の将」と説明している。水軍。つまり海の武将である。

九鬼氏はもともと志摩国(現在の三重県)を拠点とする海の一族だった。日本の戦国史で「海戦」といえば必ず名前が挙がる家である。

その一族が、江戸時代に国替えによって三田へ移された。三田は六甲山系の北側、海から遠く離れた盆地である。海の大名を、海のない土地へ移す。幕府の狙いは明白だろう。水軍の力を削ぐことである。

そして九鬼家は、三田で二百数十年を過ごした。海を失った水軍の一族が、山あいの小藩の藩主として続いていく。

この物語には、思いがけない続きがある。三田市の資料はこう記す。維新の時代、九鬼家は「再び開港地神戸に進出した」。

海に戻ったのである。二百数十年、山の国に押し込められていた一族が、明治の開港とともに港町へ出ていった。血筋というものが、これほど分かりやすく方向を持つことは珍しい。

一階は和風、二階は洋風

三田に残る建物のなかで、この街の明治を最もよく語るのが旧九鬼家住宅である。

三田市の資料によれば、この家を建てたのは十五代当主の九鬼隆範(たかのり)。しかも自ら設計している。建築は明治初期。平成10年(1998年)4月7日に県指定文化財となった。

様式は擬洋風建築。市の説明では「明治初期に洋風の建物をまねてつくられたもの」で、一階は和風、二階は洋風という構成である。

この「一階は和風、二階は洋風」という折衷は、明治初期の日本を象徴している。洋風にしたい。しかし本物の洋風建築は誰も見たことがない。写真や図版を頼りに、日本の大工が自分たちの技術で洋風らしきものを組み立てる。それが擬洋風である。

面白いのは、これを設計したのが元藩主の家の人間だということだ。水軍の家に生まれ、山国の藩で育ち、明治になって自分で西洋風の家を設計した。時代が変わったとき、旧支配層のなかにも、こういう形で新しいものへ向かった人がいた。

いま旧九鬼家住宅は資料館として公開されている。三田の旧市街、三田駅からほど近い場所である。ニュータウンの街並みからは想像しにくいが、三田にはこういう城下町の層が残っている。

海抜116メートルから697メートルまで

青野ダムによってできた千丈寺湖と、背後の千丈寺山
千丈寺湖と千丈寺山。三田市の海抜は最低116メートルから最高697メートルに及ぶ / 写真:Hiro zip post(Copyrighted free use, Wikimedia Commons)

三田市の地形を、数字で押さえておきたい。市の概要ページによれば、

  • 総面積:210.32平方キロメートル
  • 広ぼう:東西19.3キロ、南北17.8キロ
  • 海抜:最高697メートル、最低116メートル

面積210平方キロというのは、兵庫県の市のなかでもかなり広い(西宮市100.18平方キロ、宝塚市101.89平方キロ)。そして最低点でも海抜116メートル。三田市には、標高100メートル以下の土地がない。

位置についても市はこう記す。「神戸市の市街地より六甲山系を越えて北へ約25キロメートル、大阪市より北西へ約35キロメートルの圏域」。

この「六甲山系を越えて」という一句が重要である。三田は神戸に近いが、山を一つ越えた向こう側にある。気候も違う。冬は冷え込み、朝霧が出る。「三田は寒い」というのは地元では常識だ。

この盆地の気候が、三田の農産物を育ててきた。寒暖差は農業にとって味方である。そして同じ寒暖差が、ニュータウンに移り住んだ人々に「神戸や大阪とはまったく違う土地に来た」と実感させることにもなった。

1981年、山に街をつくり始めた

北摂三田ニュータウンのウッディタウン中央駅
ウッディタウン中央駅。1981年に入居が始まった北摂三田ニュータウンの中心 / 写真:PekePON(CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons)

三田市が全国的に知られるようになったのは、1980年代のことである。

市の年表によれば、昭和56年(1981年)、北摂三田ニュータウンの入居が開始した。フラワータウン、ウッディタウン、カルチャータウン。山を削り、盆地に新しい街をまるごと建設するという、大規模開発である。

これを可能にしたのが交通の改善だった。昭和61年(1986年)、国鉄福知山線が新三田駅まで複線電化される。大阪まで直通で、しかも本数が確保された。山を越えた向こう側が、通勤圏になった瞬間である。

さらに昭和62年(1987年)、北摂三田テクノパークで一部操業が開始。住むだけでなく、働く場所も用意された。昭和63年(1988年)には青野ダムが完成し、水の供給体制も整った。同じ年、オーストラリアのブルーマウンテンズ市と姉妹都市提携を結んでいる。

そして人が来た。昭和62年(1987年)から、三田市の人口増加率は日本一になる。それが平成8年度まで10年連続で続いた。市の資料はこれを「快挙」と記している。

平成8年(1996年)、人口10万人を突破。市制施行時の32,673人から38年で3倍を超えた。

ダムと、姉妹都市と、テクノパーク

1980年代の三田で起きたことを、もう少し丁寧に並べておきたい。人口が増えるというのは、それを支える仕組みが同時に整うということだからである。

昭和56年(1981年)、北摂三田ニュータウンの入居開始。昭和61年(1986年)、国鉄福知山線が新三田駅まで複線電化。昭和62年(1987年)、北摂三田テクノパークで一部操業開始。昭和63年(1988年)、青野ダム完成。

住む場所、通勤の足、働く場所、水。この四つが七年のあいだに揃っている。どれか一つでも欠けていれば、十年連続日本一という数字にはならなかっただろう。

とくに水は見落とされやすい。人口が三倍になるということは、水道の需要が三倍になるということだ。青野ダムの湛水域は千丈寺湖と呼ばれる。ニュータウンの蛇口から出る水は、山あいの谷を沈めてつくった湖から来ている。

そして同じ昭和63年、三田市はオーストラリアのブルーマウンテンズ市と姉妹都市提携を結んだ。ブルーマウンテンズはシドニー西方の山岳都市で、自然環境の豊かさで知られる。山を削って街をつくっていた時期に、山の街と姉妹都市になった。当時の三田が、自らをどういう街として位置づけようとしていたかがうかがえる。

「日本一」とは、どういう状態だったのか

昭和63年(1988年)に完成した青野ダム
青野ダム。1988年に完成し、急増する人口を支える水源となった / 写真:own(Copyrighted free use, Wikimedia Commons)

10年連続で人口増加率日本一というのは、具体的にどういうことか。

増加「率」の日本一であるから、絶対数では大都市のほうが多い。だが率で日本一ということは、その街に元からいた人の数に対して、外から来る人の割合が全国で最も高かったということだ。

毎年、学校が足りなくなる。新しい小学校が開校する。商業施設が次々にできる。街の風景が一年ごとに変わる。そこに住んでいた人にとって、「去年と同じ景色」というものがない十年だったはずである。

そして、この十年間に移り住んだ人の多くは、同じような世代だった。三十代前後の子育て世帯。新築の家を買い、子どもを地元の学校に通わせ、大阪や神戸へ通勤する。均質な集団が、短期間にまとめて入居した。

この均質さは、当時は強みだった。同じ年頃の子どもがいる家庭が隣り合っているから、地域のつながりができやすい。学校もPTAも活気がある。

だが、均質な集団は均質に歳を取る。四十年後、同じ街区の住民が、同じ時期にまとめて高齢者になる。子どもたちは進学と就職で街を出て、多くは戻らない。

210平方キロのうち、街はごく一部である

三田市の面積210.32平方キロメートルという数字を、もう少し具体的に考えてみたい。

この広さは、西宮市(100.18平方キロ)のおよそ2倍、宝塚市(101.89平方キロ)のおよそ2倍にあたる。ところが人口は西宮市の約5分の1、宝塚市の約2分の1である。

つまり三田市は、広い土地に少ない人が住んでいる市だということだ。市域の大半は山林と農地であり、市街地とニュータウンはその一部にすぎない。

この構造は、市の成り立ちに由来する。昭和33年の市制施行のとき、中心の三田町に周囲の農村部を合わせて市にした。市になるために広さを手に入れたと言ってもよい。

そして三十年後、その広さが決定的な資産になった。1980年代に大阪圏でこれだけまとまった開発用地を確保できる場所は、そう多くなかった。山を削れば、街がまるごと一つ入る土地がある。三田がニュータウンの舞台に選ばれた最大の理由は、この余白である。

いまも市域の北部、志手原や上槻瀬、木器といった地区には、田畑と山林の風景が広がっている。ウッディタウンから車で二十分も走れば、開発以前の三田がそのまま残っている。この落差は、他の阪神間の市ではなかなか味わえない。

福知山線という背骨

三田の近代を一本の線で説明するなら、それは福知山線である。

この路線は、大阪から尼崎を経て、宝塚・三田・篠山口を通り、福知山へ至る。もともとは川辺馬車鉄道として明治24年に伊丹・尼崎間で開業したものが、阪鶴鉄道となって北へ延びていったものだ。阪神間の三つの市の歴史が、一本の線でつながっている。

三田にとって決定的だったのが、昭和61年(1986年)の新三田駅までの複線電化である。それまで単線・非電化の区間があった路線が、大阪から直通で、しかも本数を確保して走れるようになった。

山を越えるという物理的な条件は変わらない。だが、時間という条件が変わった。それだけで、三田は大阪の通勤圏に入った。北摂三田ニュータウンの入居が1981年に始まり、人口増加率日本一が1987年からであることを考えると、電化がいかに効いたかが分かる。

この路線は、市内に三田・新三田・広野・相野という駅を持つ。加えて神戸電鉄三田線が三田から南へ、公園都市線がフラワータウン・南ウッディタウン・ウッディタウン中央へ延びる。JRが市を南北に貫き、神鉄がニュータウンへ枝分かれする。この二層構造が、いまの三田の交通の骨格である。

三田の地名は、二つの時代に分かれている

三田市の町名を並べると、はっきり二種類に分かれる。

ひとつは古い層。相野、広野、木器(こうづき)、藍(あい)、志手原、上槻瀬。いずれも農村の地名で、地形や作物や暮らしから来ている。読み方が難しいものが多いのも特徴だ。

もうひとつは新しい層。ゆりのき台、狭間が丘、武庫が丘、あかしあ台、すずかけ台、けやき台。ニュータウンの町名である。

後者に共通するのは、植物の名前と「台」「丘」の組み合わせだ。ゆりのき、あかしあ、すずかけ、けやき。いずれも街路樹に使われる樹木である。「ウッディタウン」という名称そのものが、この命名思想を要約している。

面白いのは、これらの町名がひらがなやカタカナを多く含むことだ。相野や木器のような漢字の難読地名に対して、ゆりのき台やあかしあ台は誰でも読める。読みやすさが、そのまま売りやすさだったのだろう。

そして市内の駅名も同じ構造をしている。三田、新三田、広野、相野という旧来の駅名に対し、神戸電鉄公園都市線にはフラワータウン、南ウッディタウン、ウッディタウン中央という駅がある。日本語の駅名と、カタカナの駅名が同じ市内に共存している。

この対比は、三田という街が二つの時代を並べて持っていることを、いちばん分かりやすく示している。片方は千年かけてできた地名で、もう片方は四十年前に会議室で決められた地名である。

日本一増えた街が、いま日本有数の減り方をしている

2025年国勢調査の人口速報によれば、三田市の人口は105,124人。2020年から4,114人・3.77%の減少である。

兵庫県内の主な市のなかでは、宝塚市の▲4.09%に次ぐ大きさだ(西宮市▲0.57%、尼崎市▲0.53%、伊丹市▲1.51%、川西市▲1.72%、姫路市▲2.30%、加古川市▲2.94%)。

そして宝塚もまた、山手にニュータウンを抱える市である。1970〜80年代に大規模ニュータウンを持った都市が、いま同じ局面にいる。

ただし、これを「失敗」と呼ぶのは正確ではないだろう。三田のニュータウンは、当時の需要に対して、当時できる最善の答えだった。問題は計画そのものより、四十年後に同じ場所へ新しい世代が入る仕組みが、日本の住宅制度のなかに用意されていなかったことにある。

興味深いのは、市の人口が10万人をわずかに超えた水準で踏みとどまっていることだ。1996年に突破した10万人を、三十年後もまだ保っている。急増した街が急減しているのではなく、増えきったところで高止まりしているという見方もできる。

山を一つ越えるということ

最後に、三田という土地の条件をもう一度考えたい。

市の概要は、位置をこう記す。「神戸市の市街地より六甲山系を越えて北へ約25キロメートル」。

25キロというのは、直線距離ではさほど遠くない。だが「六甲山系を越えて」という条件がつくと、意味がまったく変わる。山は、距離を何倍にもする。

江戸時代、幕府が九鬼家をここへ移したのは、まさにこの隔絶を利用するためだった。海から遠く、山に囲まれ、大きな街道の本流からも外れている。「何かをするには不便な場所」であることが、幕府にとっての価値だった。

ところが二十世紀後半になると、同じ条件が逆の意味を持ち始める。大阪から遠くないのに、山があるおかげで土地が余っている。これは大規模開発にとって理想的な条件だ。福知山線の電化が「山を越える」というハードルを下げた瞬間、三田は一気に開発適地になった。

そして現在。鉄道と道路が整備されきったいま、「山を越えた向こう側」という条件は、もう一度別の意味を持ち始めているのかもしれない。都心から離れていること、緑が多いこと、区画が広いこと。かつて不便さだったものが価値に変わり、価値だったものが当たり前になる。この読み替えは、三田の千三百年で何度も起きてきた。

盆地は、何度も選び直されてきた

ここで、三田の歴史をもう一度通してみたい。

8世紀、金心寺が建ち、その言葉から「三田」という地名が生まれた。江戸時代、海を追われた水軍の一族がこの盆地に入り、二百数十年を過ごした。明治になって彼らは神戸へ出ていき、残された屋敷は擬洋風建築として保存された。1981年、山が削られて新しい街ができ、十年連続で日本一人が増えた。そしていま、その世代が高齢期に入っている。

この盆地は、何度も外から人を迎え、何度も送り出してきた。九鬼家も、ニュータウンの入居者も、外から来た人々である。そして両方とも、次の世代は出ていった。

ひとつだけ変わらないものがある。地形である。六甲山系の北、海抜116メートルから697メートルの盆地。冬は冷え、朝は霧が出る。神戸から山を一つ越えた場所。この条件が、この土地に来る人と去る人を、千三百年にわたって決めてきた。

三田駅で降りて旧市街を歩けば、旧九鬼家住宅の白い二階が見える。そこから電車で山を登ればウッディタウンの整然とした街区が広がる。海を失った大名の家と、日本一人が増えた街が、同じ市内に並んでいる。

よくある質問

「三田」という地名の由来は何ですか?

三田市公式の金心寺のページによれば、本尊の木造弥勒菩薩坐像の胎内から「松山庄と言うが、これを金心寺三福田により三田と改める」という銘文が発見されたことに由来するとされています。もとは松山庄と呼ばれていた地を、金心寺の「三福田」にちなんで三田と改めた、という意味です。三福田は仏教の言葉で、供養することで福が得られる三つの対象を指します。

三田藩の九鬼家はどのような一族だったのですか?

三田市の資料は九鬼家を「勢力を誇った水軍の将」と説明しています。もともと志摩国(現在の三重県)を拠点とする海の一族で、江戸時代に国替えによって海のない三田へ移されました。そして市の資料によれば、維新の時代に九鬼家は「再び開港地神戸に進出した」とされています。二百数十年を山国で過ごしたのち、明治の開港とともに海へ戻ったことになります。

旧九鬼家住宅はどのような建物ですか?

三田市の資料によれば、十五代当主の九鬼隆範が自ら設計し、明治初期に建設した擬洋風建築です。「明治初期に洋風の建物をまねてつくられたもの」で、一階は和風、二階は洋風という構成になっています。平成10年(1998年)4月7日に県指定文化財となり、現在は資料館として公開されています。

三田市が「人口増加率日本一」だったというのは本当ですか?

三田市の資料には、昭和62年(1987年)から人口増加率が日本一となり、平成8年度まで10年連続で日本一だったと記されています。背景には、昭和56年(1981年)に入居が始まった北摂三田ニュータウンと、昭和61年(1986年)の国鉄福知山線の新三田駅までの複線電化があります。平成8年(1996年)には人口が10万人を超えました。

三田市はいつ市になったのですか?

昭和33年(1958年)7月です。市の資料では「県下20番目の市として三田市が誕生」したとされ、当時の人口は32,673人でした。それ以前は昭和31年に相野町が成立し、その後三田町が成立、昭和32年に三田町が相野町を編入するという経緯をたどっています。

この記事で参照した資料

  • 三田市「三田市の概要」
  • 三田市「三田市が誕生した後」
  • 三田市「金心寺」
  • 三田市「旧九鬼家住宅(三田市)」
  • 三田市「三田歴史通信『三田藩九鬼家の近世・近代について』」
  • 兵庫県「令和7年国勢調査 人口速報の概要」

※本記事は上記の公表資料に基づいて構成しています。公式の裏付けが確認できなかった通説や伝承については、あえて記載していません。

私たちは神戸市中央区京町に事務所を置き、兵庫県内で不動産売却のご相談をお受けしています。土地の値段は、その土地がたどってきた時間の上に乗っているものだと考えています。


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