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宝塚市

宝塚の歴史をたどる――古墳の名がついた谷に、温泉と炭酸水と劇場ができるまで

2026.08.27
宝塚市の風景

宝塚という地名を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは劇場だろう。しかし宝塚市が市として成立したのは1954年(昭和29年)4月1日のことで、宝塚歌劇の創設(1914年)よりも40年遅い。劇場のほうが、市より先にあった。

それどころか、劇場より先に温泉があり、温泉より先に寺があり、寺より先に古墳があった。市内には200を超える古墳が残っている。

この記事では、宝塚市の公式資料をたどりながら、この谷に積み重なったものを順に見ていく。話は、地名の由来から始めたい。

「拾った者に、必ず幸せがある」

宝塚市の資料は、市名の由来として一つの古文書の記述を紹介している。元禄14年(1701年)、岡田渓志の地誌『摂陽群談』である。

そこにはこう書かれているという。「この塚のそばで物を拾う者に必ず幸せあり。このことによって宝塚の名が付いた」。

塚、つまり古墳のことである。市域には200基を超える古墳が残っており、そのどれかが「宝の塚」と呼ばれていた。古墳が地名になり、地名が市の名前になった。

面白いのは、この由来が「宝が埋まっている」ではなく「そばで物を拾った者に幸せが来る」という形をしている点だ。塚を掘るのではなく、塚のまわりで偶然拾う。これは古墳を荒らすことを戒めつつ、その場所に特別な意味を与える言い方でもある。

いずれにせよ、この地名は「縁起がいい」という評判そのものが土地の名前になったという珍しい例である。後の時代に温泉が開かれ、劇場が建ち、観光地になっていくことを考えると、名前が土地の運命を先取りしていたようにも見える。

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200基の古墳が、なぜここに集まったのか

宝塚市の資料は、この地に縄文・弥生の時代から人々の営みが続けられてきたと述べ、市内に200を超える古墳が残っていることを挙げている。

200基というのは、市域の面積を考えるとかなりの密度である。なぜこれほど集まったのか。

地形を見ると理由が見えてくる。宝塚市域は、南に武庫川がつくった平地があり、北へ向かって六甲山系と北摂の山地が立ち上がる。この山と平地の境目、いわゆる山麓の傾斜地は、古墳を築くのに好都合な場所だ。平地は耕作に使いたいし、水はけのよい斜面のほうが墓を築きやすい。そして山の上からは、自分たちの田んぼが見える。

市の資料によれば、中世に入ると農業がいっそう集約化された。武庫川の水を引き、山際の土地を耕す。この基本構造は、20世紀にニュータウンが造成されるまで、千年以上ほとんど変わらなかったと考えてよい。

そして皮肉なことに、20世紀に山を切り開いて住宅地をつくったとき、まさに古墳が集まっていた山麓の斜面が造成の対象になった。古代の人が墓を築いた場所に、現代の人が家を建てた。すみれガ丘や中山桜台といったニュータウンの名前の下には、その層がある。

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小浜宿──三つの道が交わった町

宝塚市の歴史のなかで、意外に語られないのが小浜(おばま)である。市の資料は「江戸時代、小浜地区が街道の宿場町として繁栄した」と記している。

小浜は武庫川の左岸、いまの宝塚市小浜あたりにある。ここが栄えたのは、複数の街道が交わる場所だったからだ。有馬温泉へ向かう道、京へ向かう道、西宮へ下る道。山に囲まれた土地では、道が通れる場所は限られる。その限られた場所に町ができた。

宿場町の特徴は、通り過ぎる人から収入を得るという点にある。旅籠があり、馬を替える施設があり、荷を扱う問屋があった。定住人口だけを見れば小さな町でも、日々そこを通る人の数はその何倍にもなる。

この構造を頭に置くと、明治以降の宝塚がすんなり理解できる。宿場が温泉になり、温泉が劇場になり、街道が鉄道になった。通り過ぎる人を相手にするという商売の形は、担い手も装置も変わりながら、四百年続いている。

小浜は、いまも古い町並みの雰囲気を残す一角である。宝塚大劇場から東へ2キロほど。華やかな劇場のすぐそばに、その前身にあたる宿場町の骨格が残っている。

800年前、貴族が湯に来ていた

宝塚温泉について、市の資料は意外に古い記録を挙げている。

貞応2年(1223年)、藤原光経が小林(おばやし)の湯を訪れたという記録である。鎌倉時代の初めだ。市は「開湯800年」という言い方をしている。

その後長く、この湯は地元の人が使う鉱泉だった。転機は明治に入ってからである。明治17年(1884年)、武庫川の右岸で温泉が発見された。そして明治20年(1887年)、兵庫・大阪の有志が宝塚温泉を開業する。

ここで大事なのは、開業したのが地元の人ではなく「兵庫・大阪の有志」だったことだ。都市の資本が、郊外の湯を観光地として開発する。この構図は、のちの宝塚のすべてを決めることになる。

ただし順調ではなかった。明治30年(1897年)の大雨で浴場が流失している。武庫川のそばであることは、湯が湧く理由であると同時に、水害を受ける理由でもあった。

イギリス人が、この谷で炭酸水を見つけた

宝塚温泉の歴史のなかで、いちばん意外な展開がこれである。

市の資料によれば、明治22年(1889年)頃、イギリス人のジョン・クリフォード・ウィルキンソンが炭酸鉱泉を発見し、翌年「ウィルキンソン タンサン」の製造を開始した。

いまコンビニで売られている炭酸水「ウィルキンソン」である。あのブランドの起点は、宝塚の谷にある。

宝塚の鉱泉は、市の表現では「酸い水と鹹(しおから)い水」だった。飲用にはあまり向かない水である。日本人にとっては使いどころの難しい湧き水だったものを、ヨーロッパ人が見て「これは炭酸水だ」と気づいた。同じ水を見て、価値の判断がまったく違ったということだ。

宝塚という土地の性格が、ここにも表れている。この谷は、外から来た人によって価値を発見され続けてきた。兵庫・大阪の有志が温泉を開き、イギリス人が炭酸水を見つけ、そしてこの後、大阪の実業家が劇場をつくる。

小林一三は、なぜ劇場をつくったのか

武庫川のほとりに建つ宝塚大劇場
宝塚大劇場。1914年の宝塚少女歌劇の初公演から110年以上が経つ / 写真:663highland(CC BY 2.5, Wikimedia Commons)

明治30年(1897年)、阪鶴鉄道(現在のJR宝塚線)が開通した。そして明治の終わりに、箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)が走り始める。手がけたのが小林一三である。

小林一三の発想は、当時としては型破りだった。鉄道は、乗客がいるところに敷くものではない。乗客が生まれるように、沿線をつくるものだ。彼は沿線に住宅地を開発し、終点に人を集める施設をつくった。

その施設が、宝塚新温泉であり、そこに併設された室内プールだった。ところがプールは当時の日本人の習慣に合わず、うまくいかない。そこで小林一三は、プールの跡地を客席に変えて、少女たちに歌わせた。

大正3年(1914年)、宝塚少女歌劇の初公演。これが現在の宝塚歌劇団である。

ここで注目したいのは、歌劇団が芸術のためではなく、集客のために生まれたことだ。鉄道会社が、終点に人を運ぶための装置として劇場を持った。そしてその装置が、110年後もまだ動いている。

宝塚市の資料は、いまも宝塚歌劇の大劇場と音楽学校が市内にあることを市の特徴の筆頭に挙げている。鉄道会社の集客施設として始まったものが、都市のアイデンティティそのものになった例である。

なぜ「少女歌劇」だったのか

小林一三が劇場をつくったことは分かった。では、なぜ少女の歌劇だったのか。

当時の日本には、すでに歌舞伎という完成された舞台芸術があった。だが歌舞伎は高価で、演目も長く、家族連れが気軽に見に来るものではない。小林一三が集めたかったのは、鉄道に乗って郊外まで来る一般の家族客である。

そこで彼が選んだのは、誰も見たことのない形式だった。少女だけで構成される歌劇団。西洋音楽とレビュー。健全で、明るく、家族で見られる。既存の演劇と 競合しない場所に、新しい市場をつくったということだ。

この発想は、鉄道会社の経営そのものと同じ構造をしている。乗客がいる場所に線路を敷くのではなく、線路を敷いて乗客を生む。観客がいる興行をやるのではなく、興行をつくって観客を生む。小林一三が宝塚でやったのは、需要の創造という一点に尽きる。

そして重要なのは、この装置が簡単には模倣できなかったことだ。歌劇団を運営するには、音楽学校を持ち、生徒を育て、毎年新しい世代を送り出す仕組みが要る。宝塚音楽学校がいまも市内にあることが、110年続いた理由の核心である。人を育てる装置ごと持っていたから、続いた。

宝塚市が市の紹介の筆頭に歌劇を挙げるのは、単に有名だからではない。この街には、100年以上にわたって毎年若者が集まり、訓練され、舞台に立ち、そして卒業していくという循環がある。都市の装置として、これほど持続的なものは珍しい。

武庫川の右と左で、街の顔が違う

宝塚市を歩くと、武庫川を渡るたびに街の表情が変わることに気づく。

そもそも宝塚市は、武庫川をはさんだ二つの自治体が合併して生まれた。昭和29年(1954年)、川辺郡宝塚町と武庫郡良元村。郡が違うということは、江戸時代には支配の系統が違ったということでもある。

市の説明によれば、宝塚市の市章は「タカラ」の3文字をかたどり、武庫川をはさんで手を結ぶ姿を表している。市章そのものが、この合併を記念している。

いまも、川の右岸(西側)には大劇場と温泉街の名残があり、左岸(東側)にはJR宝塚駅と市役所方面の市街地がある。さらに北へ行けば清荒神、中山寺、山本の植木畑。南へ下れば逆瀬川、小林、仁川といった住宅地が広がる。

この多様さは、市域が南北21.1キロ・東西12.8キロと細長いことに由来する。南端は西宮市や伊丹市に接する市街地であり、北端の西谷地区は農村である。同じ市民でありながら、住んでいる環境がまったく違う。

市の指定するシンボルにも、その幅が表れている。市花はスミレとダリア、市木はサザンカとヤマボウシ、市鳥はウグイスとセグロセキレイ。いずれも二つずつある。ひとつに絞れないほど、市域の環境に幅があるということだろう。

千年の植木と、日本一のダリア

宝塚には、劇場や温泉とはまったく別系統の産業がある。植木である。

市の資料によれば、山本地区の植木産業は千年の伝統を持ち、日本三大植木産地のひとつとされる。歴史のページでは、17世紀後半に山本地区の植木業が発達したと記されている。

さらに、ダリアの球根は全国一の生産量である。市の花のひとつがダリアなのは、この産業に由来する。

阪急宝塚線の山本駅周辺を歩くと、いまも植木の畑と苗木の販売所が点在している。劇場のある宝塚と、植木のある宝塚は、同じ市内にありながら別の顔をしている。

そして江戸時代には、小浜(おばま)地区が街道の宿場町として繁栄していた。有馬温泉へ向かう道と、京・大坂を結ぶ道が交わる場所である。宿場、植木、温泉。近代以前の宝塚は、通り過ぎる人を相手に商売をする土地だった。この性格は、鉄道と劇場の時代になっても変わらなかったと言えるかもしれない。

年間246万人が訪れる寺と、西国三十三所の札所

年間246万人が訪れる清荒神清澄寺
清荒神清澄寺。市の資料によれば年間246万人が訪れる / 写真:KENPEI(CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons)

宝塚市には、関西でも屈指の参詣者を集める寺社がある。

ひとつが清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)。市の資料は年間246万人という数字を挙げている。台所の神様「荒神さん」として親しまれ、初詣の時期には参道が人で埋まる。

もうひとつが中山寺。西国三十三所の第24番札所であり、安産祈願の寺として知られる。

西国三十三所第24番札所の中山寺
中山寺。西国三十三所の第24番札所として、古くから参詣者を集めてきた / 写真:Mti(CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons)

この二つの寺は、いずれも阪急宝塚線の駅名になっている。清荒神駅、中山観音駅。参詣者を運ぶために駅ができたのだから当然といえば当然だが、寺の名前が日常の駅名として使われ続けているのは、この街の成り立ちを端的に示している。

宝塚には、温泉の客、劇場の客、参詣の客、植木を買いに来る客が、それぞれ別の目的で集まってきた。この街はずっと、外から人が来ることで成り立っている。

寺の名前が、駅の名前になっている街

阪急宝塚線の駅名を宝塚方面から順に挙げると、宝塚、宝塚南口(今津線)、清荒神、売布神社、中山観音、山本、雲雀丘花屋敷──と続く。

この並びには特徴がある。清荒神、売布神社、中山観音。三駅続けて寺社の名前である。

これは偶然ではない。小林一三の鉄道は、参詣客を運ぶことを最初から想定して敷かれた。清荒神清澄寺には年間246万人が訪れ、中山寺は西国三十三所の第24番札所。売布神社も古い社である。すでに人が集まっている場所を線でつなぐ。これは需要創造とは逆の、きわめて堅実な発想だ。

つまり小林一三は、二つのことを同時にやっていた。既存の参詣需要を鉄道に乗せ、その終点に新しい需要(温泉と劇場)をつくる。片方だけでは事業として成り立たなかっただろう。

そして百年後、これらの駅名は日常の言葉になった。「清荒神に住んでいます」と言うとき、話し手は寺のことを考えていない。信仰の対象だった名前が、住所として摩耗しながら生き延びている。これは街が長く続いてきた証拠でもある。

安産の寺に、なぜ人は来続けるのか

中山寺は西国三十三所の第24番札所であり、安産祈願の寺として知られる。

札所というのは巡礼の目的地である。西国三十三所は近畿を中心に33の寺をめぐる巡礼路で、その歴史は古い。巡礼者は必ずこの寺を通る。つまり中山寺は、宝塚が街になるずっと前から「人が来る場所」だった。

そこに安産祈願という要素が加わる。安産祈願は、人生で一度か二度の、しかし当人にとってはきわめて切実な参詣である。観光でも巡礼でもなく、個人的な祈りのために人が来る。この種の需要は景気にも流行にも左右されにくい。

清荒神も同じである。台所の神様として、家を守る神として、日常の延長で参られる。年間246万人という数字は、一部の熱心な信者ではなく、ごく普通の人々が毎年繰り返し訪れることでしか達成できない規模だ。

宝塚という街は、祈りの需要、湯の需要、娯楽の需要、そして植木を買う需要を、同じ路線の上に重ねている。どれかが不調でも、他が支える。四百年前の宿場町が三つの街道の交点にあったのと、構造としては同じことをしている。

5歳から20年、少年はこの街にいた

手塚治虫が5歳から約20年間を過ごした宝塚市に建つ記念館
宝塚市立手塚治虫記念館。手塚治虫は5歳から約20年間を宝塚で過ごした / 写真:MASA(CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons)

宝塚市の資料は、市ゆかりの文化人として手塚治虫を挙げ、5歳から約20年間を宝塚で過ごしたと記している。

手塚は大阪府豊中市の生まれで、幼少期に宝塚へ移った。少年時代を過ごしたのは、劇場と温泉と昆虫のいる里山が同居する街である。彼のペンネーム「治虫」がオサムシという昆虫に由来することはよく知られているが、その虫を追いかけた場所がこの一帯だった。

そして宝塚歌劇。『リボンの騎士』の主人公サファイアの造形に、宝塚歌劇の男役の影響があることは、しばしば指摘される。少年漫画に「男装の少女」という主人公を持ち込んだ発想が、この街の日常から来ているとすれば、宝塚が日本の漫画史に与えた影響は小さくない。

市内には宝塚市立手塚治虫記念館があり、大劇場のすぐそばに建っている。劇場と漫画館が隣り合っている街は、日本でここだけだろう。

市になったのは、劇場より40年あとだった

ここで行政の話をしておきたい。

昭和29年(1954年)4月1日、武庫郡良元村と川辺郡宝塚町が合併して宝塚市が誕生した。告示は同年3月29日付である。翌年には長尾村と西谷村が編入され、現在の市域が確定した。

注目したいのは、この合併が武庫川をはさんだ両岸の統合だったことだ。宝塚市の市章は、市の説明によれば「タカラ」の3文字をかたどり、武庫川をはさんで手を結ぶ姿を表している。川の左岸と右岸が、ひとつの市になった。

市域は面積101.89平方キロメートル、東西12.8キロ・南北21.1キロと、南北に細長い。南端は伊丹市や西宮市に接する市街地、北端は西谷地区の農村部である。同じ市の中に、大劇場と棚田がある。

そして昭和62年(1987年)、人口が20万人を突破する。高度成長期を通じて、山を切り開いたニュータウンが次々に開発された。すみれガ丘、中山桜台、中山五月台、逆瀬台。いずれも花や樹木の名を持つ町名で、宝塚市の市花がスミレとダリア、市木がサザンカとヤマボウシであることとも響き合っている。

21万9千人と、101.89平方キロメートル

宝塚市の資料によれば、人口は219,061人、世帯数97,808世帯(2026年4月現在)。面積は101.89平方キロメートルである。

いっぽう2025年国勢調査の人口速報では、宝塚市は217,163人で、2020年から9,269人・4.09%の減少。この減少率は、当社が集計している阪神間の市のなかで最も大きい(西宮市▲0.57%、尼崎市▲0.53%、伊丹市▲1.51%、川西市▲1.72%、三田市▲3.77%)。

理由のひとつは、市の成り立ちそのものにあるだろう。宝塚が人口を伸ばしたのは、高度成長期に山手のニュータウンを開発したことによる。同じ時期に一斉に入居した世代が、同じ時期に高齢化する。ニュータウンを持つ都市が共通して直面している問題である。

ただし、これは街の魅力が落ちたということとは違う。1954年に市になったとき、宝塚はすでに「外から人が来る街」だった。温泉、劇場、寺社、植木。この構造は、人口が増えていた時期にも、減っている時期にも変わっていない。

山を切り開いた世代と、その子どもたち

宝塚市の人口は、昭和62年(1987年)に20万人を突破した。市制施行の1954年から33年での到達である。

この増加を支えたのが、山手のニュータウン開発だった。すみれガ丘、中山桜台、中山五月台、逆瀬台、光ガ丘。いずれも「丘」「台」の字を持つ。平地が限られている宝塚では、人口を受け入れるには山を削るしかなかった。

造成された当時、これらの街は最先端だった。区画は整い、道は広く、公園があり、緑が多い。大阪へは阪急一本。子育て世代にとって、これ以上ない条件だった。

そして40年から50年が経った。同じ時期に入居した世帯が、同じ時期に高齢化する。子どもたちは独立し、多くは市外に住む。ニュータウンという仕組みは、造成のときの均質さがそのまま数十年後の均質さになって返ってくる。

2025年国勢調査の速報で宝塚市の減少率が▲4.09%と阪神間で最大になったのは、この構造の帰結と考えるのが自然だろう。ただし、これは宝塚だけの問題ではない。同じ調査で三田市は▲3.77%。1970〜80年代にニュータウンを持った都市が、いま同じ局面にいる。

いっぽうで、山手の住宅地は広い区画と豊かな緑という、いまでは新規に供給しにくい価値を持っている。造成の時代が終わったからこそ、既存のストックの価値が問い直される段階に入ったとも言える。

この谷は、ずっと「見つけられて」きた

宝塚の歴史をたどって気づくのは、この土地の価値がいつも外から来た人によって発見されてきたことである。

鎌倉時代、貴族の藤原光経が小林の湯を訪れた。明治に入って、兵庫・大阪の有志が温泉を開業した。イギリス人のウィルキンソンが炭酸鉱泉を見つけ、ブランドにした。大阪の実業家・小林一三が鉄道を敷き、劇場をつくった。そして毎年、清荒神に246万人、劇場に数十万人、中山寺に安産を願う人々がやってくる。

地元の資源を地元の人が使って産業にした街ではない。誰かが外から来て、「ここにはこういう使い道がある」と気づいた。その積み重ねが宝塚である。

そう考えると、『摂陽群談』の記述がもう一度きいてくる。「この塚のそばで物を拾う者に必ず幸せあり」。塚を掘り当てた者ではなく、そばで偶然に拾った者に幸せが来る。この土地の由来そのものが、「外から来て、見つける」という物語だった。

いま宝塚を歩けば、武庫川の右岸に大劇場があり、左岸に温泉街の名残があり、北へ上れば清荒神と中山寺があり、さらに北の西谷には田畑が広がる。南北21キロの細長い市域に、鎌倉から令和までが並んでいる。

よくある質問

「宝塚」という地名の由来は何ですか?

宝塚市の資料は、元禄14年(1701年)の岡田渓志による地誌『摂陽群談』の記述を紹介しています。そこには「この塚のそばで物を拾う者に必ず幸せあり。このことによって宝塚の名が付いた」とあります。塚とは古墳のことで、市内には200を超える古墳が残っています。

宝塚温泉はいつからあるのですか?

市の資料によれば、最も古い記録は貞応2年(1223年)に藤原光経が小林の湯を訪れたというもので、市は「開湯800年」としています。近代の開業は明治20年(1887年)で、兵庫・大阪の有志によるものでした。明治17年(1884年)には武庫川の右岸で温泉が発見されています。なお明治30年(1897年)の大雨で浴場が流失した記録も残っています。

炭酸水の「ウィルキンソン」は宝塚が発祥なのですか?

宝塚市の資料には、明治22年(1889年)頃にイギリス人のジョン・クリフォード・ウィルキンソン氏が炭酸鉱泉を発見し、翌年「ウィルキンソン タンサン」の製造を開始したと記されています。宝塚の鉱泉は市の表現で「酸い水と鹹(しおから)い水」とされ、その水が炭酸水として商品化されました。

宝塚歌劇はどのように生まれたのですか?

市の資料では、大正3年(1914年)に宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇)が創設されたと記されています。背景には、明治末に箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)を開業した小林一三が、沿線に人を集める施設として宝塚新温泉を開発したことがあります。現在も大劇場と宝塚音楽学校が市内にあり、市はこれを市の特徴の筆頭に挙げています。

宝塚市はいつ市になったのですか?

昭和29年(1954年)4月1日です。武庫郡良元村と川辺郡宝塚町が合併して宝塚市が誕生しました(告示は同年3月29日)。翌年には長尾村と西谷村が編入され、現在の市域が確定しています。宝塚歌劇の創設(1914年)より40年遅く、劇場のほうが市より先にありました。

この記事で参照した資料

  • 宝塚市「宝塚市まちの歴史」
  • 宝塚市「宝塚温泉 〜タンサンと湯のまちのルーツさがし〜」
  • 宝塚市「宝塚市制施行」(告示)
  • 宝塚市 子ども向けサイト「まちの紹介」
  • 兵庫県「令和7年国勢調査 人口速報の概要」

※本記事は上記の公表資料に基づいて構成しています。公式の裏付けが確認できなかった通説や伝承については、あえて記載していません。

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